2026年02月27日

2026年3月

 法 悦3月号 906号


 長命は時間の問題

 生の時間が延びること

 長寿は意味の問題

 生の意味が深まる事

 退屈は意味の空白

 そして 語らいは

 意味の再発見


 青色青光
 人は誰しも自ら選んだという自覚もなく、またその意味もわからず生まれてきます。
これは否定できない冷厳な事実です。
 にも関わらず、誰もが生まれてきた意味を求めずにはおれません。それはこの相矛盾する宙づりの状態に耐えきれない思いが「このままで良いのか?」という不安となって表れるからでしょう。
 だからこそ、この事を成し遂げるため、この人と出会うため、等々さまざま後付けで意味を付与します。
 仏教は「両重の因縁=父母の精血(せいけつ)と自の業識(ごっしき)」が相まって誕生したと説きます。
 もう少しかみ砕いて言えば、この時代この社会という区別差別のある場に、父母という近しい存在を縁として、様々願いを掛けられ続けてきたからこそ、その願いを内に深く蔵して人として誕生した、と受け止めます。
 思春期の子どもが親に反抗して「 誰も生んでくれと頼んだ覚えはない!」などと口にするかも知れません。
 しかし仏教のこの立場から見れば「お前の内いのちの願いが、この世に生まれ出たいと自ら求めたから生まれてきたんだよ」と、伝えることが出来るでしょう。

住職日々随想
 「じゃりん子チエ」という、1980年代にアニメ化された漫画をご存じでしょうか?
 大阪の架空の下町にあるホルモン屋「テッちゃん」改め「チエちゃん」を子どもながらに営む小学5年生。
ろくに働かず博打とケンカに明け暮れる父テツに代わって、店を切り盛りするしっかり者で、ポッチリと呼ばれる赤い髪留めと下駄がトレードマークの、そんな元気な女の子チエちゃんと、彼女を取り巻く下町の人びとの日常を、おもしろおかしく描いた物語です。
 普通に考えればケンカやごたごたの絶えない下町の、悲惨な崩壊家庭のお話になりそうですが、主人公のチエちゃんを取り巻く全てが、誰しも不完全でいる事の許される、そういう「路地」のような場を舞台として、描かれている事に気付かされます。
 この数年10代の若者、特に中高生の死因の首位が自死であり、それはG7主要国の中で唯一日本のみ、という深刻な状況が厚生労働省から公表されました。
 昔の下町には、目的も成果も求められない「路地」がありました。立派な大人がいるわけでも、豊かな暮らしがあるわけでもない。それでも一つ確かなことがありました。それは失敗しても、日が変わればまたそこに居ても良いという、追い出されない空間、それが路地でした。
 ひるがえって現代の家庭はどうでしょう?「あなたのため」「将来困らないように」という言葉の奥には確かに愛情があります。
 しかしそこには同時に、大人自身の不安も潜んでいるのではないでしょうか?
 競争や比較の社会の中で、家族がいつの間にか成果を求め評価する「通路」になってはいないでしょうか。家の中まで評価が入り込むと、子どもは「このままの自分ではだめなんじゃないか」と感じてしまいます。
 居場所とは、立派な環境ではありません。関係が切れない事、うまくいかない日があっても、「今日はそうなんだな」と今日にとどめる。
 失敗があってもそれを「だからあなたは…」というように人格に固定せず、先々の将来に広げすぎない。 そして時には親も「実は不安なんだ」と打ち明ける事が出来る。無理に不安を隠せば管理になりますが、自身も不安を認めれば共にという視界が開けてきます。
 真宗の教えは完成してからの救いではありません。不安や迷いを抱えたそのまま願われ抱えられていると教えます。家族もまた、完成した者の集まりでなくてよいのです。
 いたらぬ者同士が、それでも関係を切らない。家庭の中に一日のうちわずかな時間でも、評価の入らない空間があるなら、それは命を支える路地になりえます。
 家族を理想化するのではなく、路地に戻すこと。その小さな回復が、子どもにも大人にも、静かな居場所を取り戻し、生きる力を与える歩みとなるのです。

真宗入門 ー仏 旗ー 
 仏旗は、寺院において重要な法要が勤まる際に、本堂の入口や門前に掲げ
られる旗で、ここが仏教寺院である事を表し、今まさに仏さまの教えが説かれている事を意味しています。
 昔から日本では仏旗に「緑・黄・赤・白・紫」の五色が用いられてきました。国際仏旗として採用された五色の意味について以下のように述べられています。
〇青は仏様の髪の毛の色で、心乱さず力強く生き抜く 力「定根」を表します。
〇黄は燦然と輝く仏様の身体で、豊な姿で確固とした 揺るぎない性質「金剛」を表します。
〇赤は仏さまの情熱ほとばしる血液の色で、大いなる 慈悲の心で人々を救済することが止まることのない 働き「精進」を表します。
〇白は、仏様の説法される歯の色を表し、清純なお心 で諸々の悪業や煩悩の苦しみを清める「清浄」を表 します。
〇樺は仏さまの聖なる身体を包む袈裟の色で、あらゆ る侮辱や迫害、誘惑などなどによく耐えて怒らぬ 「忍辱」を表します。
 このように仏旗とは仏様の働きを色で表したものであり、仏様が今まさに説法をして下さっている事を意味する大切な旗印です。

法語の味わい ー法語カレンダー 3月号より
 お彼岸に わがいのちの行方を聞く「人はいのち終えたら、どこに往くのか?」誰もが一度は考えた事のある問いではないでしょうか。
にもかかわらず、その答えを知る人はこの世には存在しません。ただ「わが名称えよ、必ず迎えん」という阿弥陀様のご本願をお説き下さった仏を除いては。
 故、松井恵光師のお寺のご門徒に、幼い娘さんを亡くされたお母さんがおられたそうです。
その方が「娘は何処に行ったのでしょう?」と尋ねられたとき「そりゃあ迷っておられるでしょう」と応えられたそうです。
 驚いたお母さんが「そんな、あんまりです。」と言われたそうですが、「お母さん、娘さんに道に迷ったら、どこに行けば良いか教えましたか?お母さんが迷っていては、娘さんに正しい行き先を教えることなど出来ないでしょう。」と仰ったそうです。
 それから後、そのお母さんはお寺で開かれるご法座に欠かさず熱心に聞法に来られるように
なったそうです。

坊守便り ー服喪期間についてー
 浄土真宗では喪に服す期間はいつまででしょうか?と、先日ご葬儀を終えられたお母様と娘さんがお寺にお越しになり、お尋ねになられました。
 ご主人を見送られ、3週間ほどたっておられましたが、闘病中病院との往復で疲れておられたはずのお母様でしたが、ご葬儀の采配にもしっかり気配りをされ、また、ご葬儀翌日から亡くなったお父様を偲び、毎日ご仏前のお給仕を念入りにしておられるそうです。
 ご主人のご両親を見送った時には、一年間喪に服し、お買い物以外、外出をされなかったそうですが、娘さんはお母様のお身体を案じ、ゆっくり休養を取って欲しいと願っておられます。
 真宗のみ教えに照らすとどうでしょう?「臨終即往生(亡くなるとすぐに仏様になる)」という教えを元に、中陰期間をあえて「忌中」と捉えず、1年間必ず「服喪期間」としなければならないとは申さず、普段通りの生活を送ったとしても、差し支えありません。 また死を「穢れ(けがれ)」とは捉えないので、お祝い事なども必ず避けないといけないとは申しません。
ただ、ご遺族の気持ちが落ち着くまで配慮は必要です。 また四十九日の法要は、諸仏となられた故人様を偲び、阿弥陀様への仏恩報謝の場としたいものです。

三月の行事
5 日(木)午前10時半〜 ピラティス

15日(日)午後1時〜  おみがき・清掃ご奉仕

19日(木)午前10時半〜 ピラティス

21日(土)午後2時〜  春季彼岸永代経法要
ご講師  伊勢 道浄寺 酒井正夫師

四月の行事
9 日(木)午前10時半〜 ピラティス

18日(土)午後2時〜 祥月講・同朋の会聞法会
      ご法話とオリジナル曲弾き語り
            鈴木君代師

23日(木)午前10時半〜 ピラティス
 
寸言
 あたりまえ→尊い
         ドラえもんの翻訳こんにゃくより
 














































































posted by ansenji at 23:47| Comment(0) | 法悦

2026年01月31日

2026年2月

 法 悦2月号 905号

葉っぱのフレディ(抄訳)   レオ・バスカーリア

一本の大きな木に、一枚の葉っぱがありました。
名前はフレディ。
春に生まれて、夏には風に揺れ
仲間達と笑い合っていました。
でも、秋が来ると、
身体の色がだんだん変わっていきます。
フレディは不安になりました。
「どうして落ちなきゃいけないの?
 僕はまだ生きていたいのに」
すると、そばの年老いた葉っぱが言います。
「フレディ落ちることは終わりじゃないんだよ。
 私たちは土にかえって、木を養い、
 また新しい葉として生まれてくるんだ」
そしてある朝、静かに降り積もる雪を見て
「これも生きることの一部なんだ。」
そう思ったとき、フレディは枝を離れ
空へまい上がっていきました。
いのちは消えたのではなく、
形を変えつながっていったのです。        

青色青光
「生のみが我らにあらず、死もまた我らなり。我らは生死を並有する
ものなり。」と、清沢満之師は述べておられます。
 私たちは、ややもすれば生と死の間に抜きがたい断絶が在ると捉えて
しまいます。
しかし、仏教で説く縁起の教えに照らして、いのちの相を問い直してみると、
断絶ではなく、変化しながらも連続しているという事実に気付かされます。
 上記の物語は一面、季節の移ろい=死すべき身の自己受容を描いた秀作です。
 しかし私たち凡夫の身に於いて身近なかけがえのないものの死や、自身の死を
考えるとき、誰もがこのように逍遙として死に赴くことや、心穏やかに受け
入れることが出来るのでしょうか?
 親鸞様と唯円坊との活き活きした対話が記されている、歎異抄九条に
「娑婆の縁つきて力なくして終わるときにかの土へは参るべきなり、急ぎ
参りたき心のなきものをことにあわれみたもうなり。それにつけてこそ
大悲大願はたのもしく往生は決定と存じそうらえ」と、私たち凡夫の抱く
不安をも包み込んで見放さない、阿弥陀仏のお慈悲の確かなることを説き、
むしろ急ぎ浄土へまいりたいという勇み心を批判しておられます。

住職日々随想
 阿弥陀様は名前で救う仏さまです。
名前で救う?とはどういう意味でしょうか。
 親鸞聖人は主著、教行信証の行の巻に「いわんや我が弥陀は名をもって物を
接したまう(お救い下さいます)ここをもって耳に聞き口に誦するに、無辺の
聖徳、識心に攬入す(阿弥陀様のお心がこの身に染み渡ります)。
永く仏種(悟りの因)となりて、頓に(速やかに)億劫の重罪を除き、
無上菩提を獲証す。信に知りぬ少善根にあらずこれ多功徳なり」と、私たちは
日々の暮らしの中、心がもやもやして重く晴れないことがあります。
 苦しい、けれど何が苦しいのかも分からない。
そんなことはないでしょうか?
 仏教ではこのような心のありようを「無明煩悩」と捉えます。
 若き日の親鸞聖人も、まさにそんなお一人でした。
比叡山での二十年に及ぶ厳しい修行を重ねながらも、悟りを得るには到らず、
深い絶望の中、道を求めて苦悶し続けておられました。
 やがて吉水の法然上人のもとを訪ね、「ただ念仏して弥陀にたすけられ
まいらすべし」とのお言葉を頂かれたとき、親鸞聖人の内深くにあった迷いに、
初めて確かな「言葉」が与えられました。
 もちろん長いご修行の中で、阿弥陀如来の救済についての深い理解は
持っておられたに違いありません。
が、実際に法然上人と出遭い、吉水の草庵に集っておられる人びとの姿に、
「ここに道あり」との確信を得られたからこそ、師のお言葉が胸に響いたのです。
 それは、凡夫の身にとって、自力修行による悟りはない、という厳しい
自己認識であると同時に、そのような者をこそ救わんと誓われたのが、
阿弥陀如来のご本願であると深く信知されたのです。
 煩悩がなくなったわけではありません。悩みが消えたわけでもありません。
 けれど、わが身の事実がはっきりと知らされたとき、心の霧は速やかに晴れて
いったのです。
 世界が変わったわけではありません。迷いの身が迷いのまま阿弥陀さまの
おはたらきの中に、この身が置かれていると知らされたのです。
 親鸞聖人の歩みは、悩みのない生き方を示すものではありません。
悩みを抱えたまま念仏申すことが、仏恩報謝の確か道、と頷かれたご生涯でした。
 私たちもまた、もやもやする心をそのままに、南無阿弥陀仏と申すところに、
すでに仏さまの救いのおはたらきに出遭っているのです。

真宗入門 ーお寺の鐘ー

「お寺の鐘の音がゴーンと聞こえると耳に心地よいことですが、何のために撞く
のでしょうか?
 もともとお寺の鐘は、法要の集会の合図として撞かれるとともに、時を知らせる
ためでもありました。
時計が無かった時代の時を知る一つの手がかりで、特に夜明けと日没を知らせて
くれるものとして、明方と夕暮れ頃に撞かれました。
 現在の時間では、おおよそ朝夕の6時頃になります。
 今でも朝夕に時間を決めて、鐘が撞かれる事が多いようです。
 真宗本廟(東本願寺)では、朝のお勤め(晨朝)の合図として、十一回撞かれ
ています。
 夏は4時50分、冬は5時50分、春秋は5時20分に撞かれます。
 報恩講などの法要では、お勤めが始まる1時間前にも撞かれます。
 鐘は正式には梵鐘と呼ばれ、高さ120〜150p、口径60〜90pのものが
多く、お寺の境内にある鐘楼堂という建物、あるいは鐘楼門に釣り下げ、
撞木(しゅもく)という木製の太い棒で撞き鳴らします。

法語の味わい ー法語カレンダー 2月号より

 この口からお念仏
 阿弥陀さまはいつもご一緒 

 よく「仏様のお迎えが・・・」というような言葉を聞くことがあります。
 どうやら、仏様は遠くにいらっしゃって、いつか迎えに来てくださるように
受け止めている方が少なからずいらっしゃるようです。
でもそういう仏様が、私に本当の安心を与えてくださるでしょうか。
 阿弥陀様は、私を必ず救うという誓願を立てられ、その誓いを『重誓偈』
で重ねて示されました。
 そのなかで「名声(みょうしょう)超十方」というお言葉があります。
 これは、あなたを救う願いを完成させましたという名告り、その名号が、
声となってあらゆる方角に広がっていきますと誓ってくださっています。 
 阿弥陀様は今、私の口から出てくださる声の仏様になってくださって、
私の人生にずっとご一緒してくださるのです。

坊守便り ー創作浪曲 医師 中村 哲の生涯ー
「いのちの水を求め続けた中村哲の物語」をご縁があり、1月25日
当寺本堂で満堂の観客を迎え熱演して頂きました。
 中村哲医師はアフガニスタンやパキスタンで人道支援に尽力されました。
2019年、アフガン政府から名誉市民権を授与されましたが、同年、
活動中に凶弾に倒れました。
 福岡市のNPO団体「ペシャワール会」の現地代表として、パキスタンで
ハンセン病患者等の治療に従事したほか、アフガニスタンでは医師であり
ながら、用水路を建設し、農業支援の陣頭指揮を執りました。
 結果、不毛のガンベリ砂漠、約1万6500ヘクタール(東京ドーム
約3500個分)を緑の豊かな土地に変え、ケシ栽培や兵士になる以外、
収入の道の無かった約65万の人びとが、平和に暮らせるよう支え続け
られました。
 約35年にわたり、戦禍の中で病や貧困に苦しむ人びとに寄り添い続けた、
中村哲医師のひたむきな姿を、オリジナルの創作浪曲として演じていただき
ました。
 昨年は第2次世界大戦後80年の節目の年でしたが、平和の大切さを次世代に
語り継ぐことは先に生まれた者の使命です。
今回演じて下さった趙博さんは、素晴らしい曲と平和のメッセージを届けて
くださいました。

二月の行事

5 日(木)午前10時半〜 ピラティス

19日(木)午前10時半〜 ピラティス

21日(土)午後2時〜 祥月講・同朋の会聞法会
      ご講師 西稱寺住職 宮部 渡師  

三月の行事

5 日(木)午前10時半〜 ピラティス

15日(日)午後1時〜  おみがき・清掃ご奉仕

19日(木)午前10時半〜 ピラティス

21日(土)午後2時〜  春季彼岸永代経法要
ご講師  伊勢 道浄寺 酒井正夫師

寸言
 自分が死ぬと言うことを 曖昧にしているとき

 生きているということに 曖昧である
     
                     宮城 




















































































posted by ansenji at 13:08| Comment(0) | なんでも質問箱

2025年12月31日

2026年1月

 法 悦1月号 904号

ちょうどよい     藤場 美津路

お前はお前でちょうどよい
顔も体も名前も声も
お前にそれはちょうどよい
貧も富も親も子も
息子の嫁もその孫も
それはお前にちょうどよい
歩いたお前の人生は
悪くもなければ良くもない
おまえにとってちょうどよい
地獄へ行こうと、極楽へ行こうと
行ったところがちょうどよい
うぬぼれる要もなく、卑下する要もない
上もなければ下もない
死ぬ月日さえもちょうどよい
仏さまと二人連れの人生
ちょうど良くないはずがない            

青色青光
 それこそならい性のように、私たちは自分の「思いの物差し」で様々比較し一喜一憂いたします。
 物事がうまく運ばなかったときや、迷いの中答えが出ずに苦しんでいるそんなとき、自らと他を比較して、もっと恵まれた環境だったらとか、もっと理解のある家族だったらだとか、もっと違った人生があったのではとか、この思いの物差しで自分や他者を切り裁いたりも致します。
 私の力で自らを鼓舞し、自らを支えることには必ず限界があります。
 しかし、そんな私を阿弥陀如来は最初から包み、「それで良い、そのままのあなたで良い」と私の気づきを待ち続けていて下さるのです。
 それは理屈などではなく、その願心に荘厳された世界に、生かされ続けてきたわが身の事実に、深く頷くことが出来るのか、それとも自分とは無関係な単なる物語と切り捨てるのか、親鸞様は「深信自身」、移ろい続ける我が心ではなく、わが身の事実に帰れと促し続ける阿弥陀の願心、他力の大いなるまことに目覚めて生きよ、と呼びかけ続けていて下さるのです。
 まさに「ちょうど良い」とこの身に響いたとき、願心にまかせきる「憶念の信」が生まれるのです。

住職日々随想
 「むしゃくしゃして殺った。相手は誰でもよかった。」 とは、通り魔殺人を犯した容疑者の多くが口にする言葉です。
確かに思うに任せぬ人生、複雑化する社会に、現代人の誰もがむしゃくしゃした経験の一つや二つは持っているでしょう、が、だからと言って、誰もが表に出て人を刺し殺そうなどとは思いません。
 思うに他人を傷つけずに居れないほどの、深い孤独、自らの居場所を失って、底知れぬ絶望感に支配されてしまっている魂の疼きが、そこにはあるのではないでしょうか。
「相手は誰でもよかった。」 しかし本当にそうでしょうか? 実はその言葉の奥には、本当に葬り去りたい相手がいるのです。
それは自分自身に他なりません。つまり「拡大自殺」と捉えることが正しい理解なのです。
自死願望には、大きく分けて二つの類型があります。
一つには一人で死ぬもので、自責の感情が強い傾向を持つものです。
もう一つは、他者を巻き込む拡大自殺で、多分に他責の感情の強い人に見られるもので、池田小学校の事件の犯人が「世の中の奴は皆んな敵だ。」と繰り返していた事からも明らかです。
いつも自信に満ちあふれ、なんの迷いもなく生きている人など一人もいません。
迷いと弱さを抱え生きる、まさに凡夫同士のこの世の中、「辛いんだ。寂しいんだ。悲しいんだ。苦しいんだ。」と、声を上げ助けを求めることができる人こそが、本当に強い人なのです。
分けてもわたしの存在そのものを受け止めて下さる、我が名称えよ必ず救わんとの阿弥陀仏のお誓いが、何にもまして頼もしく思われるのです。
この事を明治の先達清沢満之師は
「我、他力の救済を念ずる時は、我が世に処するの道開け、我、他力の救済を忘るるときは、我が世に処するの道閉づ。
 我、他力の救済を念ずる時は、我、物欲の為に迷はさるること少く、我、他力の救済を忘るる時は、我、物欲の為に迷はさるること多し。
 我、他力の救済を念ずる時は、我が処するところに光明し、我、他力の救済を忘るる時は、我が処するところに黒闇覆う。
 ああ、他力救済の念は、よく我をして迷倒苦悶の娑婆を脱して、悟脱安楽の浄土に入らしむが如し。」と表白されました。                

真宗入門 ー袈 裟ー

 僧侶が衣の上に身につけているものを袈裟と呼びますが、いったいどういう意味やいわれがあるのでしょうか?
 袈裟は古代サンスクリット語でカシャーヤ、つまり茶褐色という意味で、他宗教の修行者と区別するために定められた色を指す言葉でした。
 原始仏教教団の修行僧は、托鉢用の鉢と、使い古して他に用途の無くなったぼろ切れを縫い合わせた、糞掃衣(ふんぞうえ)だけが許された持ち物でした。
 のちに中国で壊色(えじき)汚れた茶褐色と翻訳されましたが、その後、ぼろ切れだけでなく、様々な端布を縫い合わせて、僧侶が法要などで着用する現在の袈裟になりました。
 袈裟は「三世諸仏同証の霊服」とも呼ばれ、いわゆる仏教徒の旗印の意味もあります。
 現在大谷派で用いられる袈裟には、輪袈裟、畳袈裟、墨袈裟、青袈裟、五条袈裟、七条袈裟などがあり、それぞれ法要に応じて使い分けています。

法語の味わい
ー法語カレンダー 1月号より

 気持ち新たに
 仏法聴聞のいのちを頂く 

 とんちの一休さんなどと、親しみを込めて呼ばれる一休禅師は「正月(門松)は冥土の旅の一里塚 めでたくもあり めでたくもなし」と詠まれました。
 諸行無常のわが身であることを忘れ、正月だからと浮かれていることを戒められたものです。
 親鸞さまは「無常の身、愚かな身」であるこのわが身こそ、阿弥陀仏の救いのお目当て。必ず浄土に生まれさせんと誓われた南無阿弥陀仏のお念仏を頂く、それこそが真実のめでたさだと教えて下さっています。
 南無阿弥陀仏に出遇うと「正月は浄土の旅の一里塚 めでたくもあり ありがたくもあり」と、詠み変えることが出来るでしょう。
 この身、今生において念仏を頂き、仏法聴聞にいそしむ事こそ、人として生を受けた喜び、とも言えるでしょう。共々におん同朋の歩みを続けましょう。

坊守便り
ー将棋と出産を選ばせないでー
 将棋の女流六冠である福間香奈さんが将棋界の女性の権利を求めて、要望書を日本将棋連盟に提出しました。
「これから女流棋士を目指す女の子たちが、安心して頂点を目指せる将棋界になってほしい」と、女流棋士の妊娠、出産をめぐって、日本将棋連盟が定めた規定の見直しなどを求めました。
 現在の規定では「出産予定日の産前6週目から、産後8週目までの期間タイトル戦の日程と、一部でも重複すれば対局者が変更される。」とあります。
 女流タイトル戦は8つあり、ほぼ毎月日程が組まれていて、子供を産むか、タイトル戦を選ぶかの二者択一を迫られる状況となっています。
 この状況は、生殖に関する権利及び自己決定権を大きく制約し、人権上、極めて重大な問題を含んでいると指摘しています。
 現代では様々な分野で女性が活躍しています。出産という未来へつなぐ役割が、キャリア形成の妨げにならない世界へとなるよう、応援していきたいことです。

一月の行事

15日(木)午前10時半〜 ピラティス

18日(日)正午〜 修正会 同朋の会新年会

25日(日)午後4時〜 創作浪曲「医師 中村哲」
 趙 博・沢村道代
参加費 投げ銭

29日(木)午前10時半〜 ピラティス


二月の行事

5 日(木)午前10時半〜 ピラティス

19日(木)午前10時半〜 ピラティス

21日(土)午後2時〜 祥月講・同朋の会聞法会
      ご講師 西稱寺住職 宮部 渡師  

寸 言
 なにをしたかということより
 いかなるこころをもってしたか
 ということが 常により深い問題

               宮城 




















































































posted by ansenji at 20:57| Comment(0) | 法悦