2018年02月26日

3月 住職日々随想


 今年の二月一日、スーパー・ブルー・ブラッドムーンとも言われる皆既月食が、世界の至るところで観測されました。
この珍しい天文ショーをご覧になった方も多かったことでしょう。
 そこで思い出されますのは、法然上人の詠まれた「月影の至らぬ里はなけれども ながむるひとの心にぞすむ(月の光は全ての里を照らして、隔てはないが、それを眺めた人の心には宿るけれども、眺めない人の心には宿らない)」
の歌です。
ここで謳われる月の光とは、阿弥陀仏の無限のお慈悲のおたとえで、それは一切衆生に分け隔てなく注がれてあるけれども、それを仰ぎ求める人の心には届くけれども、残念ながら仰がぬ人の心には届かない、というお心と伺います。
 しばしば仏教では、月の光は、優しく密やかに降り注がれる、控えめな働きが仏の慈悲に、日の光は、真実を明らかにする強い働きが仏の智慧にたとえられます。
 お釈迦様ご在世の昔、マガダ国の王舎城において、父王を殺害し、母を軟禁した罪の報いに、心身に死に至る病を得、苦しむアジャセ王の為に、お釈迦様が涅槃に入ることをとどめて、月愛三昧(がつあいざんまい)という、深く静かな瞑想に入られ、その御身より清涼で静かな光を発せられて、王宮のアジャセ王の苦しみを癒やし、固く閉ざされた王の心を開いたと、涅槃経にあるように、仏の寄り添いのお慈悲が、月の清涼な光にたとえられているのです。
 では、その仏の慈悲の光を仰ぐ人とは、一体どういう人なのでしょうか?
 心の闇を痛み悲しむ人は、切に光を仰ぎ求めますが、自身の心の闇の深さにすら気づかない人は、仰ぐことも求めることもいたしません。
親鸞聖人は晩年に作られた「愚禿悲嘆述懐和讃(ぐとくひたんじゅっかいわさん)」に、
 無慚無愧のこの身にて
まことの心はなけれども
弥陀の回向のみ名なれば
功徳は十方に満ちたもう と、詠われ
 また、歎異抄には「いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし」と、述懐されているように、阿弥陀仏の無限のお慈悲に照らされて、はじめて自身の心の闇の底知れぬ深さを知らされ、また、その闇深き凡夫をそのままに、救い取って捨てじという、仏の大慈悲に、自身の闇の底を打って、はじめて遇い得た、その感動を述べておられます。
 それは、躍り上がるような喜びではないけれども、命のそこからわき上がる、月の光のような深く静かな、しかし揺るぎない確信なのだと知らされるのです。

三月の行事
1 日(木)午前10時半〜 ピラティス

4 日(日)午後1時〜 おみがき清掃ご奉仕

15日(木)午後2時〜 仏教民謡踊りの会

16日(金)午後2時〜 仏教コーラスの会

24日(土)午後2時・午後6時
春季彼岸会永代経法要
ご講師  石川県 妙徳寺住職
        芳原 里詩師
*三月の門徒女性聞法のつどいは、彼岸会法要が
 有りますのでお休みです。

四月の行事
5 日(木)午前10時半〜 ピラティス

24日(火)午後2時〜 門徒女性聞法の集い
               浄土和讃29

26日(木)午後2時〜 仏教民謡踊りの会

*仏教コーラスの会は未定です。
*本堂内すべて椅子席、床暖房完備、どなた様も お気軽に。
posted by ansenji at 00:11| Comment(0) | 住職日々随想