2018年05月01日

5月住職日々随想

 四月に大阪市仏教会の社会福祉の担当の方より、東日本大震災の被災地から、お坊さんに来てもらって話を聞いてほしい、との依頼が来ているのですが、ご一緒に行かれませんか、とお声掛け頂きました。
 何か私でお役に立てる事があるならば、ということで予定はしていたのですが、諸般の事情で、残念ながら行けなくなってしまいました。
 考えてみますと、あの震災から七年が経ってようやく、と言って良いのか、まだまだ七年では足りないのか、そこはよくわからないのですが、被災地のご遺族の方々や、様々な被害に遭われた方々が、その辛い胸の内を誰かに聞いて欲しい、そうして自らの物語りとして、語らずには前に進めない、そういう思いを持たれたからこその、ご依頼であったと思われます。
 実際、言葉にしないことには、悲惨な体験を現実のこととして受け止め切れない、という事が確かにあります。にもかかわらず、人は悲しみ苦しみが深ければ深いほど、一番言いたいことは、なかなか言葉にはできないものなのです。
だからこそ、人は詩を書いたり、歌を詠んだりするのではとも思われるのですが、多くの哲学者や、こころのケアをされる医療現場の方々も、異口同音に、自身の人生を物語ることが、その後のその人の歩みにとって、決定的に重要であることを述べておられます。
物語り?と、疑問に思われる方もあるかもしれません。しかし、あらゆる悲しみは、それを物語りにするか、それについて物語ることで、耐えられるものになる、という死生学(悲嘆ケアや医療倫理について研究する学問)の考察もあります。
 そしてまた、物語ることで、自分自身のアイデンティティと亡くなった方、無くした物との関係性を再構築して、深い悲しみを、人生にとって、かけがえのない大切な思い出、むしろ支えと受け止めていける、ということもあるのです。
 仏説観無量壽経の王舎城の悲劇において、夫である王を我が子に殺され、自身も殺されかけた王妃イダイケが、幽閉されていた王宮に出現されたお釈迦様に向かって、宝冠瓔珞を引きちぎり、地に身を投げ出して号泣し「私は何故かかる悪子を産んでしまったのか、何故お釈迦様は、我が子アジャセをそそのかしたダイバと眷属なのですか?」と愚痴の限りをはき出した後、この苦しみに満ちた娑婆世界を離れて、安養の浄土を願ったように、こぼれる愚痴は、受け止めてもらう相手無くしては、愚痴を愚痴とも気付ないし、次の一歩も踏み出し得ない、ということが如実に知られますし、誰かの悲しみに、耳を傾けることは、相手にとっても自身にとっても、大事な事と知られるのです。
 今、誰かをお支えすることが出来るかもしれない私が、又いつか、誰かに支えて頂かなければならない時が、来るかもしれないのです。

五月の行事

14日(月)午前10時半〜 ピラティス

18日(金)午後2時〜 仏教コーラスの会

24日(木)午後2時〜 仏教民謡踊りの会

26日(土)午前9時〜 大阪教区同朋大会参加

29日(火)午後2時〜 門徒女性聞法の集い
               浄土和讃 30
六月の行事

7 日(木)午前10時半〜 ピラティス

8 日(金)午後2時〜 仏教コーラスの会

16日(土)午後4時〜 祥月講同朋の会聞法会
      ご法話  光照寺住職 墨林 浩師

28日(木)午後2時〜 仏教民謡踊りの会

*安泉寺女性部総会・懇親会の詳細は未定です。
*本堂内すべて椅子席、冷暖房完備。
 どなた様もお気軽に。
*六月の門徒女性聞法のつどいは
 お休みです。
posted by ansenji at 23:43| Comment(0) | 住職日々随想