2021年04月27日

2021年5月

法 悦 5月号 848号

 阿弥陀仏の御名をきき

 歓喜讃仰せしむれば

 功徳の宝を具足して

 一念大利無上なり


 たとひ大千世界に

 みてらん火をもすぎゆきて

 仏の御名を聞く人は

 ながく不退にかなふなり

         讃阿弥陀仏偈和讃

青色青光

ー阿弥陀仏は名前で救う仏様ー
 お母さんの腕に抱かれてスヤスヤと眠る赤ちゃんが、突然のカミナリに驚き火がついたように泣き出した時、「よしよしお母ちゃんやで、お母ちゃんここに居てるで」と、「お母ちゃんやで」の呼びかけに赤ちゃんは安心いたします。
 同じように不安と苦悩を抱えた私たち衆生に阿弥陀さまは、「我は阿弥陀である、どうか我が名、南無阿弥陀仏と称えておくれ。たとえ一声の念仏であっても、称えるものを必ず浄土に生ぜしめ、仏の悟りを得させずにはおきません。」と呼びかけ続けておられるのです。
 まさに阿弥陀仏は名をもって救い給う仏様、私たちが願うに先立って、南無と頂くものには自ずから安らぎと、自らの業を担っていく勇気と知恵を与えて下さるのです。

住職日々随想
 ずいぶん以前になりますが、東本願寺で毎年夏休みに行われて
いる「全国児童夏の集い」のスタッフとして、全国からやってくる子供たちの名簿を整理している時、一人ひとりの子供たちの名前には、それぞれの親御さん方の深い願いがこもっているんだなぁと感動を覚え、名前の持つ意味について深く考えさせられた事がありました。
 誰もがよくご存知の、宮崎駿監督の長編アニメーション映画「千と千尋の神隠し」の、主題として扱われているものも「名前」です。
 主人公の少女「千尋」がその名前を奪われることによって自身の記憶をなくし、魔法使いのおばあさんに新たに「千」と言う名前を与えられ、操られるようになってしまいますが、様々な出会いと冒険を経て名前を思い出し、自らを取り戻していくというお話でした。
 古代中国では人の名前を呼ぶ時、実名、諱(いみな)を敬って避ける風習があり、ことに漢字文化圏では、諱で呼びかけることは親や主君などのみに許され、それ以外の人間が実名で呼びかけることは極めて
無礼であると考えられました。
 また、本名はその人物の霊的な人格と強く結びついたものであり、
その名を口にするとその霊的人格を支配することができると考えられ、そこから字(あざな)が用いられるようになったそうです。
 たとえば白居易の姓は白、諱は居易、字は楽天で、本名の白居易とも、白楽天とも称されます。また、諸葛は姓、諱は孔明ですが、字も併記して諸葛亮孔明と称される場合もあります。
 実に、名は体を表すと申しますが、まさにそのものを表すとともに、備わっている働きも示しています。
 親鸞聖人のご和讃に「十方微塵世界の念仏の衆生をみそなわし、摂取してすてざれば阿弥陀と名づけたてまつる」と、念仏の衆生をおさめとって捨てないという、そのお働きをこそ阿弥陀とお呼びすると、お名前とお働きが違わない名体不ニ(みょうたいふに)のおいわれを讃えておられます。

坊守便り ー初参式ー  
 同朋会役員の貝増さんのご長男さんに第二子が誕生され、お寺にお越しになり、「初参りさせていただきます」と言って下さいました。
 赤ちゃんの誕生を祝う儀式は神社にお参りされ、産土神に土地の一員として健やかな成長と長寿をお祈りされますが、神式とは別にお寺でもお勤めさせて頂いています。
新たないのちの誕生を祝い、これからの人生を仏様の慈悲につつまれて歩んで行けるよう念じてお勤めします。
「人身受け難し」人として生まれることは大変難しく尊いことです。「授かったいのち」の尊さを感じ、生まれたばかりの赤ちゃんと共に、お父さん、お母さんとしての自覚を持って出発を誓う儀式が「初参式」です。
赤ちゃんが0歳ならば、お父さん・お母さん、お祖父さん・お祖母さんも0からのスタートです。それぞれの出発点です。
 今日、自然環境は温暖化が進み、破壊され、教育は混乱し、子供達の未来は決して明るいとはいえません。子供達の成長をお念仏の心を基に、自分中心の思いではなく、いただいたいのちのありがたさを受け取って見守っていきたいことでございます。
 お寺での初参式はあまり周知されていないのが現実です。この度のご縁をご紹介して広くお参り下さることを念じております。

五月の行事
15日(土)午後2時〜祥月講・同朋の会
20日(木)午前10時半〜ピラティス
      午後2時〜仏教民謡踊りの会
六月の行事
3 日(木)午前10時半〜ピラティス
      午後2時〜仏教民謡踊りの会
19日(土)午後2時〜祥月講・同朋の会
      講師 光照寺 墨林 浩師
24日(木)午前10時半〜ピラティス
      午後2時〜仏教民謡踊りの会
*コロナ禍の状況に依りましては、急な行事変更  もあり得ます。尚、感染予防に留意して準備致し ておりますが、お越しの節はマスク等のご着用を、 宜しくお願い申し上げます。

















posted by ansenji at 22:35| Comment(0) | 法悦

2021年04月02日

2021年4月

法 悦 4月号 847号

  さくら    茨木のりこ

ことしも生きてさくらを見ています

ひとは生涯に何回ぐらい

さくらをみるのかしら

ものごころつくのが十歳ぐらいなら

どんなに多くても七十回ぐらい

三十回 四十回のひともざら

なんという少なさだろう

もっともっと多く見るような気がするのは

祖先の視覚もまぎれこみ重なりあい

霞(かすみ)立つせいでしょう

あでやかとも妖しとも不気味とも

捉えかねる花のいろ

さくらふぶきの下をふららと歩けば

一瞬名僧のごとくにわかるのです

死こそ常態

生はいとしき蜃気楼と

青色青光

 春は出遇い、そして、別れの季節。
そんな春を彩る花の中でも、櫻花は、その淡く優しい色合いと、散り際の
潔さから、特別な感慨をもたらしてくれます。
 若い頃には無邪気に春の訪れを喜べたりもいたしますが、歳を重ねれば重ねる
ほど、来年も又この季節に巡り会うことが出来るのだろうかと、自らに問い返さ
ずにはおれなくなることが増えてまいります。
 ギリシャ神話に、死者は「レテ」という忘却の川を渡って此の世に再生する
ので、前世の記憶を失って生まれてくると説きますが、たとえそうでなくても、
記憶の断片がいのちの底に残っているのか、初めて目にし、耳にするはずのもの
にも、感動するということが、不思議と誰の身にも起こります。
 親鸞聖人のあきらかにされたお念仏のみ教えと、現代社会の様々な課題とを
切り結びながら、常に新たな課題を提起して下さり、九十歳で西帰された、
故、和田稠師は、晩年のご講演の折り「こうしてお目にかかるのは初めての方
もおられますが、不思議と、どなた様もお懐かしいような、お名残惜しいよう
な、そんな気持ちが致します。」とたびたび仰っておられ、何かそこには、
生死の別を超えて響き合う、いのちの不思議を感じずにはおれませんでした。
 まさに死こそ常態、生はいとしき蜃気楼と、願生浄土の歩みとして、生が
確かに頂かれることです。

住職日々随想
 米国スタンフォード大学の心理
学者、ジェニファー・エバーハート氏は、人は何故差別をするのか?悪意なき
偏見をめぐって『無意識のバイアス』という書を著されました。
 その冒頭には、彼女が受けた衝撃的な出来事が紹介されています。
 5歳の長男を連れて飛行機に乗ったとき、息子が一人の男性を指さして
「あの人お父さんみたいだね」と、ところがその男性は長髪で彼女の夫は坊主
頭、身長も夫よりは低く、黒人男性であると言うこと以外、似ても似つかない
のに何故?と思っているとき息子が「あの男の人、飛行機を襲わないといいね」
と衝撃の一言、「何故そんなことを言うの」と問いただしても、息子は答えら
れずに悲しそうな顔をするだけ、彼女は息子にまで刻み込まれた、人種的偏見に
打ちのめされた、と。
 人は誰しも悪意の有無にかかわらず偏見、いわゆるバイアスを持っています。
偏見は偏見として自覚しないと、差別と格差を生み出す心は、次々と伝播し
再生産されていってしまいます。
 お釈迦様はお生まれになってすぐに七歩歩まれ、天と地を指さして「天上天下
唯我独尊、われ世に於いて無上尊となるべし。」と獅子吼されました。
その時、大地は喜びにうち震え、天からは妙なる音楽が流れ、花びらが舞い、
甘露の雨が降り注いだと伝えられ、その伝説にならい、世界各地の仏教国に
於いて、四月八日には降誕会(ごうたんえ)もしくは灌仏会(かんぶつえ)と
称して、花御堂の誕生仏に甘茶を掛けて、お釈迦様の誕生を祝う行事が営まれ
ます。
 お釈迦様がお生まれになって、すぐに七歩歩まれたと言うことは、迷いの六道
を超えてお悟りを開かれたことを、さらに天と地を指さして天上天下唯我独尊と
獅子吼されたのは、私が一番偉いなどと仰ったのではなく、「天の上にも天の下
にも、いま誕生したこのおいのちは、かけがえのない尊いものなのです。」と、
此の世に生を賜った、どのいのちもすべて尊いものと、カーストという厳しい
差別が当たり前の時代に、いのちの絶対平等性を示されたのです。 
 およそ仏教では、比べることの出来ないものを比べる心を「慢」といい、煩悩
の一つとして戒めています。
 いわゆる高上がりをして他を見下す心を驕慢心、その逆に「どうせ自分なん
かは」と卑下し、自己軽蔑する卑下慢、そして「あんたも私もチョボチョボや」
とする小ずるい心を等慢と、いずれも迷いの煩悩と教えられています。
 親鸞聖人は正信偈の中で「不断煩悩得涅槃」と、阿弥陀仏をたのむところに
賜る、断ずることの出来ない煩悩を、煩悩としてまっすぐに見つめ続け、
どこまでも課題として担っていける、そのような人として、日々あらたに誕生し
続ける「念仏成仏の一道」をあきらかにされたのです。

坊守便り ー春季彼岸永代経ー  
 新型コロナの新規感染者数が徐々に減り始め、少しずつ地域の行事も
再開されてきました。
 お寺の女性副部長さんは地元、鶴橋連合町会の女性部長さんです。
 百歳体操が再開され、ふれあい喫茶のサービスも販売のみですが再開
されたそうです。
 当寺も役員さんとのご相談の上、例年の二座を一座に短縮して、春季彼岸会を
お勤めしました。月に何度かの女性の講座もコロナ禍のためお休みしていました
ので、ご参詣頂けるのか心配いたしましたが、お餅屋さんにお願いしたお斎が
すべて無くなるほどで、嬉しいことでした。
 ご法話のご講師は、安泉寺でも馴染みが深くなった、伊勢の酒井正夫先生で、
「尊さについて」の講題でお話を頂きました。
 本当の尊さ、人間の尊厳とは何なのかをいつもお話くださいますが、今回は
コロナ禍に触れ、私たちはこのコロナ禍で大きな生活の制限をうけ、
生活スタイルの変更も余儀なくされました。でも、そのことは自分にとって
本当に大切なものは何だったか立ち止まり考える、生き方を問い直す出来事でも
あったとお話し下さいました。
 老いと病についてもお話されました。少子化と超高齢化のなか、人生百年時代
のこころのあり方を問い直し、病になることも無駄ではない、人生におこる
出来事に何一つ無駄なものはなく、どんな出来事も無意味ではない、切り捨てる
のではなく、受け止めていく、そんな念仏の生活をお話下さいました。
 ご門徒の皆様と彼岸永代経をお勤めし、ご法話を聴聞させていただけて、
嬉しい事でした。

四月の行事

1 日(木)午前10時半〜ピラティス

15日(木)午前10時半〜ピラティス
      午後2時〜仏教民謡踊りの会

17日(土)午後2時〜祥月講・同朋の会
    ご講師 武庫川念仏寺 土井紀明師

*本年四月より祥月講・同朋の会の開始時刻を繰り上げ
 2時からとさせていただきます。   

五月の行事

6 日(木)午前10時半〜ピラティス

15日(土)午後2時〜祥月講・同朋の会
              講師 未定 

20日(木)午前10時半〜ピラティス
      午後2時〜仏教民謡踊りの会


*コロナ禍の状況に依りましては、急な行事変更 もあり得ます。
 尚、感染予防に留意して準備致して おりますが、お越しの節はマスク等の
 ご着用を、宜しくお願い申し上げます。
posted by ansenji at 16:04| Comment(0) | なんでも質問箱