法 悦 12月号 855号
貧を貧と思わざれば
これ富なり。
富を富と思わざれば
これ貧なり。
貧富は、あながち財貨の少多に関することにあらざるなり。
充足を知ると、知らざるとによることなり。
清沢満之
青色青光
仏教では「少欲知足」欲少なく足るを知る、ということが勧められますが、
我々凡夫の身には、なかなか容易な事ではありません。
仏説無量寿経に「少長男女共に銭財を憂う。有無同然、憂思また等し…
田有れば田を憂い、宅有れば宅を憂う…田無ければまた憂えて田有らんと欲し、
宅無ければまた憂えて宅有らんと欲す」と説かれているとおり、
経済的なことに振り回され、心安らぐ時がありません。
上記の言葉は明治の先達、清沢満之の随想録『有限無限録』の
「貧富は精神にあり」からのものですが、自らの心を拠り所としている限り、
小欲知足という境地は得がたく、処世の道も閉ざされる。
まさに絶対無限者、つまり「阿弥陀仏をたのむ一念」に立たない限り、
満足を得る道は無いと示されました。
この事をさらに「われ他力の救済を念ずるとき我が世に処するの道開け、
われ他力の救済を忘るるとき、我が世に処するの道閉ず」と表白されました。
住職日々随想
ー一隅を照らす。中村哲という生き方ー
一昨年の十二月四日、アフガニスタンの東部ジャララバードで、凶弾に
倒れた中村哲医師とは、どの様な人だったのでしょう。
博多の玉井金五郎という、炭鉱荷役の荒くれ者達の頭領の妻であった
祖母の「理屈じゃなか。弱かもんば助けんしゃい。」という教えと、受け継いだ
川筋気質、そしてキリスト教信仰などがない交ぜになって、その活動を
支えてきたのではないかと言われています。
当初パキスタンのペシャワールの病院を拠点に、ハンセン病患者治療の
活動をしておられましたが、隣国アフガニスタンからも、医療を求めて
多くの人々がやって来る現実に触れ、アフガニスタンに診療所を開きました。
そんな中、2000年この地帯一帯に大旱魃が起こり、多くの人々が
飢餓状態に陥りました。
そんな現実を前に、医療よりまず水が必要だ、と井戸を掘り始めましたが、
水脈そのものが枯れてしまっていると分かり、用水路を造る灌漑事業を始められました。
土木技師でもない中村医師ですが、懸命に技術を学び、故郷の河川で目にした、
蛇籠に石を詰めて用いる、古いけれども、専門家や道具の少ない所でも、
長く使える手法を用い、用水路の建設に、命がけで取り組まれました。
こうして不毛のガンベリ砂漠を緑の大地に変え、65万人もの人々を
飢えから救い、貧しさ故に行っていたケシ栽培や、兵士となる以外の、
まっとうな職をもたらしました。
「平和には戦争以上の力が有る。しかし平和には、戦争以上の忍耐
と努力が必要である」と、常々口にしておられたそうです。
30年以上にわたって戦争をしている、アフガン人の誰に「何が一番欲しい?」
と尋ねても、アマン(平和)が欲しいと答えるそうです。
日本人に同じ質問をしても、そんな答えは返ってこず、お金が欲しいとか、
いい仕事が欲しい、などしか返ってこないでしょう。
ビザ無し渡航の許される、名ばかりのものでない実を伴った名誉国民の
称号を、ガニ大統領から与えられ、葬儀には大統領自らが棺を担ぐなど、
まさに英雄として遇されました。
そういった中村医師の活動は「一隅を照らす」という、それぞれが
それぞれの現場で自ら光りとなる、その信念に支えられていたと言えるでしょう。
坊守便り ーお見送りー
責任役員総代藤野照男様のご夫人、弘子さんがお浄土へ還られ、会員有志で
お見送りさせて頂きました。
お釈迦様のご誕生からご入滅までのお悟りの聖地、インドの仏跡にも亡き
前坊守とご一緒下さり、親交を深められました。
また女性部では「女性のつどい」を5年間続けてさせて頂きましたが、
故人様も総代夫人として出席され、ご挨拶して下さいました。
物語を吟じて頂いた琵琶演奏、オカリナ演奏、アフガニスタンで井戸を
掘った先生のお話、大人の紙芝居語りなどさせて頂きました。
弘子さんもこの会への参加を、いつも楽しみにして下さり、「このような会が
安泉寺で出来ることは素晴らしいし、お寺の門徒として嬉しい事です。」
と皆様に向け、お話下さいました。
この集いもコロナ禍で2回お休みしましたが、ぜひまた再開したい催しです。
一カ月前にお見舞いに伺いましたが、「坊守さん、女性部に新人を集めなさいよ」
と、共にお寺を護持するお気持ちで、いつもお話下さった事が心に残ります。
南無阿弥陀仏
十二月の行事
2 日(木)午前10時半〜ピラティス
4 日(土)午後2時〜 祥月講・同朋の会
ご法話 住職
16日(木)午前10時半〜ピラティス
午後2時〜仏教民謡踊りの会
19日(日)午後2時〜おみがき清掃ご奉仕
31日(金)夜11時〜歳暮勤行・除夜の鐘
一月 の行事
6 日(木)午前10時半〜ピラティス
20日(木)午前10時半〜ピラティス
午後2時〜仏教民謡踊りの会
23日(日)正午〜 同朋の会新年互礼会(詳細は後日ご案内申し上げます)
*感染予防には十分配慮し、各行事を行ってまいりますが、万一、感染が
再拡大した場合、変更もしくは中止することがございます。
2021年11月28日
2021年12月
posted by ansenji at 18:43| Comment(0)
| 法悦
2021年11月
法 悦 11月号 854号
くらし 石垣りん
食わずには生きてゆけない
メシを
野菜を
肉を
空気を
光を
水を
親を
きょうだいを
師を
金もこころも
食わずには生きてこれなかった
ふくれた腹をかかえ
口をぬぐえば
台所にちらばつている
にんじんのしっぽ
鳥の骨
父のはらわた
四十の日暮れ
私の目にはじめてあふれる獣の涙
青色青光
「親ガチャ」聞き慣れない言葉
ですが、最近若者の間で使われる
ようになったそうです。
否応なく進む格差社会と貧困の連鎖の中で、
子供は親を選べない、どういう境遇に生まれるかは運次第
という思いを、ハンドルを回して運試しするガチャポンと
言うゲームなどになぞらえて表現したものです。
「親ガチャ外れた」などと我が子に言われたら、
ショックを受ける親御さんも少なからずおられることでしょう。
では仏教ではどう捉えているでしょうか?
善導大師の観経疏に、人として誕生するのは、自の業識
(ごっしき)つまり、生まれたいという内因と、父母の精血
という外縁の和合によるもので「両重の因縁」に依る、
と説いておられます。誰もが忘れているかも知れませんが、
あくまでも生まれたいと言う因があっってのこの身なのです。
前述のように言う子もいるかもしれません。
が、子供たちはどんな親であっても、心の底でその人を
許し包んでいるに違いないのです。
住職日々随想
ー明治の先学、清沢満之師は「人事を尽くして天命を待つ」
ではなく、「天命に安んじて、人事を尽くす」と、真宗門徒の
生活信条を表されました。ー
誰の人生にも、始まりと終わりが有ります。
いつ何時か、誰を母に、誰を父に生まれようとして、生まれて
きた人はいないでしょう。
気がついたら私は私として生まれていた。
じつに、生まれるとき思い通りにならないのと同様、死ぬとき
も思い通りにはなりません。たとえ、それが自ら選んだ死で
あったとしても、望みを無くし、追い詰められての事に違い
ないのですから、やはり思い通りとは言えないでしょう。
私たちは、始めも終わりも思い通りにはならないのに、
間だけは思い通り何とかしたい、夢見続け、努力さえし続ければ、
何時かは成就すると信じ、四苦八苦致します。
しかし、私たちすべてが業縁存在、ご縁次第でどうなっていくか、
誰にも分かりません。それ故、不安の尽きぬ人生ですが、不安は又、
確かなものを求めている、いのちそのものの叫び、無くすべきもの
ではなく、むしろ活かすべきものではないでしょうか。
近代大谷派を代表する仏教学者のお一人、安田理深師のご自宅が
火事に遭われました。
隣家から延焼して、先生の貴重な蔵書やノート類があらかた焼けてし
まったそうです。
先生の難を聞きつけた門人たちが駆けつけると、先生はわずかに焼け
残ったものの、水をかぶってしまった書籍などを運び出し、一枚一枚
丁寧にページを繰って、乾かそうとしておられたそうです。
普通の人間であれば、ショックで打ちのめされてしまうのかも知れ
ませんが、先生は「隣の家から火が出た。もらい火のせいで焼けて
しまった、と言う事かも知れません。
しかし事実として『焼かれた』のでも『焼いた』のでもない
『焼けたのだ』。
私の家がたまたまそこにあった、いわば存在責任はあるのです。
『焼けた』と言うところに立つことによって、事実を事実として
受けていける。自も他も損なわんで済む。こんな事を今度の火事で
学びました。」と語っておられたそうです。
そんな安田師は又「不安に立つ」という確かな視座を我々に
与えて下さいました。
坊守便り
報恩講 金子みすゞ
「お番」の晩は雪のころ
雪はなくても暗(やみ)のころ
くらい夜みちをお寺へつけば
とても大きな蝋燭と
とても大きなお火鉢で
明るい、明るい、あたたかい
大人はしっとりお話で
子どもは騒いじゃ叱られる
だけど明るくにぎやかで
友だちゃみんなよっていて
なにかしないじゃいられない
更けてお家にかえっても
なにかうれしい、ねられない
「お番」の晩は夜なかでも
からころ足駄の音がする
家族や近所中のひとが「お番」報恩講を待ち望んでいる、
そんな情景が伝わって来ます。
子供のみすずさんは、日暮れの早くなった頃おばあちゃんと
手をつないで「お番」に行くと友だちもみんな来ていて、
お斎を頂き、大きな蝋燭の灯りで親鸞様のご一代記を今年もお聞きする。
この季節が近づいてくると
心がうずうずしてきます。
今年も女性部の有志の皆さんと南御堂のお勤めに遇わせて
いただきます。新門首も就任後初めてご親修くださいます。
十一月の行事
4 日(木)午前10時半〜ピラティス
7 日(日)午後1時〜おみがき清掃ご奉仕
報 恩 講
12日(金)午後2時〜大逮夜勤行・ご法話
引き続き 御伝鈔・ご法話
ご講師 泉大津南冥寺 戸次公正師
*コロナ禍ですので、報恩講を一日に短縮し、お斎のご接待も
行えませんので、お昼のご法話に引き続き、御伝鈔拝読を行います。
18日(木)午前10時半〜ピラティス
午後2時〜 仏教民謡踊りの会十二月の行事
十二月の行事
2 日(木)午前10時半〜ピラティス
4 日(土)午後2時〜 祥月講・同朋の会
講師未定
16日(木)午前10時半〜ピラティス
午後2時〜仏教民謡踊りの会
19日(日)午後2時〜おみがき清掃ご奉仕31日(金)夜11時〜歳暮勤行・除夜の鐘
31日(金)午後11時 歳暮勤行・除夜の鐘
くらし 石垣りん
食わずには生きてゆけない
メシを
野菜を
肉を
空気を
光を
水を
親を
きょうだいを
師を
金もこころも
食わずには生きてこれなかった
ふくれた腹をかかえ
口をぬぐえば
台所にちらばつている
にんじんのしっぽ
鳥の骨
父のはらわた
四十の日暮れ
私の目にはじめてあふれる獣の涙
青色青光
「親ガチャ」聞き慣れない言葉
ですが、最近若者の間で使われる
ようになったそうです。
否応なく進む格差社会と貧困の連鎖の中で、
子供は親を選べない、どういう境遇に生まれるかは運次第
という思いを、ハンドルを回して運試しするガチャポンと
言うゲームなどになぞらえて表現したものです。
「親ガチャ外れた」などと我が子に言われたら、
ショックを受ける親御さんも少なからずおられることでしょう。
では仏教ではどう捉えているでしょうか?
善導大師の観経疏に、人として誕生するのは、自の業識
(ごっしき)つまり、生まれたいという内因と、父母の精血
という外縁の和合によるもので「両重の因縁」に依る、
と説いておられます。誰もが忘れているかも知れませんが、
あくまでも生まれたいと言う因があっってのこの身なのです。
前述のように言う子もいるかもしれません。
が、子供たちはどんな親であっても、心の底でその人を
許し包んでいるに違いないのです。
住職日々随想
ー明治の先学、清沢満之師は「人事を尽くして天命を待つ」
ではなく、「天命に安んじて、人事を尽くす」と、真宗門徒の
生活信条を表されました。ー
誰の人生にも、始まりと終わりが有ります。
いつ何時か、誰を母に、誰を父に生まれようとして、生まれて
きた人はいないでしょう。
気がついたら私は私として生まれていた。
じつに、生まれるとき思い通りにならないのと同様、死ぬとき
も思い通りにはなりません。たとえ、それが自ら選んだ死で
あったとしても、望みを無くし、追い詰められての事に違い
ないのですから、やはり思い通りとは言えないでしょう。
私たちは、始めも終わりも思い通りにはならないのに、
間だけは思い通り何とかしたい、夢見続け、努力さえし続ければ、
何時かは成就すると信じ、四苦八苦致します。
しかし、私たちすべてが業縁存在、ご縁次第でどうなっていくか、
誰にも分かりません。それ故、不安の尽きぬ人生ですが、不安は又、
確かなものを求めている、いのちそのものの叫び、無くすべきもの
ではなく、むしろ活かすべきものではないでしょうか。
近代大谷派を代表する仏教学者のお一人、安田理深師のご自宅が
火事に遭われました。
隣家から延焼して、先生の貴重な蔵書やノート類があらかた焼けてし
まったそうです。
先生の難を聞きつけた門人たちが駆けつけると、先生はわずかに焼け
残ったものの、水をかぶってしまった書籍などを運び出し、一枚一枚
丁寧にページを繰って、乾かそうとしておられたそうです。
普通の人間であれば、ショックで打ちのめされてしまうのかも知れ
ませんが、先生は「隣の家から火が出た。もらい火のせいで焼けて
しまった、と言う事かも知れません。
しかし事実として『焼かれた』のでも『焼いた』のでもない
『焼けたのだ』。
私の家がたまたまそこにあった、いわば存在責任はあるのです。
『焼けた』と言うところに立つことによって、事実を事実として
受けていける。自も他も損なわんで済む。こんな事を今度の火事で
学びました。」と語っておられたそうです。
そんな安田師は又「不安に立つ」という確かな視座を我々に
与えて下さいました。
坊守便り
報恩講 金子みすゞ
「お番」の晩は雪のころ
雪はなくても暗(やみ)のころ
くらい夜みちをお寺へつけば
とても大きな蝋燭と
とても大きなお火鉢で
明るい、明るい、あたたかい
大人はしっとりお話で
子どもは騒いじゃ叱られる
だけど明るくにぎやかで
友だちゃみんなよっていて
なにかしないじゃいられない
更けてお家にかえっても
なにかうれしい、ねられない
「お番」の晩は夜なかでも
からころ足駄の音がする
家族や近所中のひとが「お番」報恩講を待ち望んでいる、
そんな情景が伝わって来ます。
子供のみすずさんは、日暮れの早くなった頃おばあちゃんと
手をつないで「お番」に行くと友だちもみんな来ていて、
お斎を頂き、大きな蝋燭の灯りで親鸞様のご一代記を今年もお聞きする。
この季節が近づいてくると
心がうずうずしてきます。
今年も女性部の有志の皆さんと南御堂のお勤めに遇わせて
いただきます。新門首も就任後初めてご親修くださいます。
十一月の行事
4 日(木)午前10時半〜ピラティス
7 日(日)午後1時〜おみがき清掃ご奉仕
報 恩 講
12日(金)午後2時〜大逮夜勤行・ご法話
引き続き 御伝鈔・ご法話
ご講師 泉大津南冥寺 戸次公正師
*コロナ禍ですので、報恩講を一日に短縮し、お斎のご接待も
行えませんので、お昼のご法話に引き続き、御伝鈔拝読を行います。
18日(木)午前10時半〜ピラティス
午後2時〜 仏教民謡踊りの会十二月の行事
十二月の行事
2 日(木)午前10時半〜ピラティス
4 日(土)午後2時〜 祥月講・同朋の会
講師未定
16日(木)午前10時半〜ピラティス
午後2時〜仏教民謡踊りの会
19日(日)午後2時〜おみがき清掃ご奉仕31日(金)夜11時〜歳暮勤行・除夜の鐘
31日(金)午後11時 歳暮勤行・除夜の鐘
posted by ansenji at 18:14| Comment(0)
| 法悦