法 悦 12月号 867号
親鸞讃歌(宗祖を憶ふ) 金子大榮
昔 法師あり 親鸞と名づく
殿上に生れて庶民の心あり
底下となりて高貴の性を失わず
己にして愛欲のたち難きを知り
俗に帰れども道心を捨てず
一生凡夫にして 大涅槃の終りを期す
人間を懐かしみつつ
人に昵(なづ)む能(あた)わず
名利の空なるを知り
離れ得ざるを悲しむ
流浪の生涯に 常楽の故郷を慕い
孤独の淋しさ 万人の悩みを思う
聖教を披(ひら)くも文字を見ず
ただ言葉のひびきをきく
正法を説けども師弟をいわず
ひとえに同朋の縁をよろこぶ
本願を仰いでは
身の善悪をかえりみず
念仏に親しんでは
自ら無碍の一道を知る
人に知られざるを憂えず
ただ世を汚さんことを恐れる
己身の罪障に徹して
一切群生の救いを願う
その人逝(ゆ)きて数世紀
長(とこしな)えに死せるが如し
その人去りて七百年
今なお生けるが如し
その人を憶いてわれは生き
その人を忘れてわれは迷う
曠劫多生の縁
よろこび尽くることなし
青色青光
十一月六日、安泉寺では秋晴れの好天の下、門信徒の皆様をはじめ、
地域の保存会の皆様、遠近より多数の僧侶の方々、そして何より多くの
お稚児さんと、そのご家族の皆様、総勢二百五十名の参堂列を迎え、
ご本山に先立ち、改修なった清々しい本堂にて、宗祖親鸞聖人ご誕生
八五〇年・立教開宗八〇〇年予修・大屋根修復境内諸施設整備完了奉告法要を、
賑々しくかつ厳かにお勤めいたしました。
その後のジャグリングとコンサートの夕べも含め、永く記憶に残るすばらしい
法要となりました。
紙面をお借り致しまして、ご支援いただきました皆々様、準備から後片付けまで
ご協力下さった皆々様、ご参詣下さった皆々様には、こころより篤く御礼
申し上げます。
さて、上記の詩は大谷派の碩学、金子大榮師が親鸞聖人七〇〇回御遠忌に
よせて詠まれたもので、親鸞聖人のご生涯の歩みに想いを馳せ、師ご自身の
「宗祖」として、遇いがたくして遇い得た喜びを、深く味わい詠って
おられます。
ご本山でも来春、親鸞聖人のご誕生八五〇年・立教開宗八〇〇年の慶讃法要を
お迎えします。
「人と生まれたことの意味をたずねていこう」と、慶讃法要のテーマが立て
られていますが、親鸞様のご生涯の歩みと、現代社会を生きる私たちの抱え
持つさまざまな課題とどこで交わるのか、ややもすれば時代の羅針盤を
見失って漂流する私たちに、「汝いずこより来たりて、いずこに行かんとす」
と親鸞様から改めて問われているように思うことです。
住職日々随想
連日報じられるウクライナの戦況。
ロシアのプーチン政権に依って引き起こされた蛮行に、国土を蹂躙されて、
家を失い故郷を追われ、家族や大切な人を亡くした、そんな方々の苦しみ
悲しみに胸が痛みます。
と、同時に、戦場にかり出された若者たち、それこそ状況が異なれば、
親しい友ともなり得た者同士が、戦場では殺し合わねばならない、その不条理。
国際政治の荒波に、抗いようもなく翻弄される人々の苦しみ悲しみを、
1991年から1995年まで続いた内戦下のユーゴスラビアで過ごした
セルビアのベオグラード在住の詩人・翻訳家の山崎佳代子さんが著書
『そこから青い闇がささやき』に、旧ユーゴスラビア内戦下の子ども達の
引き裂かれたこころを書いておられます。
「一九九一年一〇月、ベオグラードの幼稚園で、こどもが黒い花を描き始めた。
黒い花は多くの子どもの絵に咲いた。ユーゴスラビア内戦が始まり若い父親が
連邦軍に動員されていたし、クロアチアから難民となって人が流れてきた。
黒い花は不安や恐れを表す。それは、社会に発せられた危険信号だ。
難民となった少年はナイフが突き刺さり血が滴る心臓を描いた。
少年が体験した戦場の残酷さを表すだけではない。心の傷が攻撃的な感情に
転化する危険をも示していた。」と。
難民の心のケアに尽力された心理学者のベスナ・オグニェビッチ女氏は、
奪われたもの、踏みにじられたものを描き出すこどもの力の激しさに言葉を
失ったそうです。
今また同じように繰り返されるウクライナの悲劇。誰ひとりとして幸せに
はなれないのに、何故人間はかくも愚かなことを繰り返してしまうのだろうか
、と思わずにはいられません。
更に言えば今回のウクライナ戦争に乗じて、力には力だと、軍備増強を声高に
叫ぶ政治家たち。それはまた、子どもたちに黒い花を描かせる道に
相違ないのです。
お釈迦様は戒律の第一に、「全てのものは暴力におびえる。全てのものに
とって命は愛おしい。おのが身に引き比べて殺してはならぬ、殺さしめては
ならぬ。」と、不殺生のいましめを説いておられます。
それは、われに正義有りと、他を責める所には成り立ちません。
どこまでも自らの罪業性に向きあい、頭の下がったところに、初めてうなずける
ものなのです。
坊守便り ー慶讃法要ー
十一月六日は快晴に恵まれ良き日
となりました。
親鸞聖人ご誕生八五〇年・立教開宗
八〇〇年慶讃法要予修・本堂大屋根
修復事業完了奉告法要をお勤めさせて頂きました。
いろいろな方に助けて頂いた一日でした。
住職の甥が花立てをしてくれました。一ヶ月前から取り寄せた特別な花材を、
一週間かけ立ててくれました。
儀式用の花は工作のようなものです。作った幹に枝を載せてゆき、見事に
仕上げてくれました。
お稚児さんも、沢山ご参加下さいました。ご門徒皆さんのご協力で、参加の
稚児の愛らしい衣装は庭儀(行列)を豪華にしてくれました。
猪飼野保存会の皆さんも法被をそろえて、警備に当たって下さいました。
若院の友人も大道芸やアーティストの手配、カメラ・動画も担当をして
くれました。
住職は沢山の僧侶と大谷派らしい厳粛なお勤めを声高らかに行ってくれました。
朝早くから、それぞれが持ち場で精一杯に力を発揮し円成した一日と
なりました。
みんなのいい笑顔が素晴らしい事でした。
改めましてお礼申し上げます。
十二月の行事
10日(土)午後2時〜祥月講・同朋の会
ご法話 住職
8 日(木)午前10時半〜ピラティス
22日(木)午前10時半〜ピラティス
25日(日)午後2時〜おみがき清掃ご奉仕
31日(土)午後11時〜歳暮勤行除夜の鐘
一月の行事
12日(木)午前10時半〜ピラティス
21日(土)午後2時〜 修正会(新年ご挨拶)
*コロナ禍でございますので会食等は行いません
26日(木)午前10時半〜ピラティス
*感染予防には十分配慮し、各行事を行いますが、感染が
さらに拡大した場合、変更もしくは中止する場合がございます。
2022年11月30日
2022年12月
posted by ansenji at 18:02| Comment(0)
| 法悦
2022年11月01日
2022年11月
法 悦 11月号 866号
迷いは
何十年座禅しても消えない。
でもその迷いのおかげで
自らの迷いから問われている。
その迷いのおかげで
また一歩踏み出そうという
勇気をいただいている。
毎日毎日
自らの迷いのお世話になりながら
これからも
安心して迷っていこうと思います。
ドイツ人禅僧ネルケ無法
青色青光
朝目を覚ましたその瞬間から、夜眠りに
つくその時まで、私たちは常に迷いと不安の中にあります。
それこそ些細な日常生活の迷いから、ひとはどう生きるべきなのか、などと
いう人生の根本に対する迷いまで、常に迷いとそこに生まれる不安と共にある
のが、私たちの有り様なのでしょう。
上記は、足かけ三十年間日本で禅の修行を続けておられる、ドイツ生まれの
禅僧ネルケ無法さんの言葉で、ややもすれば私たちは、自分自身が抱え持つ
迷いや不安が克服される、そのことこそが悟りなんだと、どこかで思い違いを
してはいないかと、問うてきます。
そこで改めて思い出されますのは、故松本梶丸師が度々紹介された、
金沢ヨンさんという篤信のお婆さんの話です。
このヨンさんのところに、ある新興宗教の方がおふたり来られて
「お婆ちゃん、毎日不安がいっぱいあるやろ。私らその不安を取り除いて
あげるお手伝いをしてるねん。一遍、話聞きに来えへんか?」とのお誘いに、
「ほんまに不安だらけの世の中、あんたらご苦労様な事やねえ。けどな、この
不安あんたらにあげてしもうたら、ウラ何を頼りに生きていったらエエがやろ
、不安は私の命やもん。」と、不安があるからこそ仏法に私を尋ね、地に
足付いた歩みをせずにおれない、との言葉に思わず「ばあちゃんの背中から
後光が差しとる」と言い残し帰って行かれたそうです。
住職日々随想
「上見て暮らすな、下見て暮らせ」
などとよく言われます。しかしよくよく考えてみますと、そこには下目に見る
者がなければ、自身を受け入れることが出来ず、さらには下目に見る者が
いなければ、むりにでもそういった者を作り出さずにはおれない、そのような
ゆがんだ満足を求めるこころが、抜きがたくあるのではないでしょうか。
常に他と比較し、一喜一憂するこころ、高上がりして、他を見下す「驕慢」、
逆に「どうせ私なんか…」と、自己軽蔑する「卑下慢」、さらには、
「あんたもわたしもちょぼちょぼや」というこずるいこころを「等慢」と言い、
いずれも仏教では「慢心」として戒めています。
いかにも尊大に振る舞っているひとも、実は強烈な劣等感にさいなまれ、
内なる不安を覆い隠すために激しく他を攻撃するということがあります。
一例を挙げれば、ロシアのプーチン大統領などがそうでしょう。
欧米に対する強烈な劣等感が、隣国に支配の手を伸ばし、旧ソ連のような
偉大な国を復活させたい、という野望に結びついているのではないでしょうか?
実に慢心にとらわれていだく劣等感ほど、ある意味、危険なものはありません。
お釈迦様はお生まれになってすぐに七歩、歩まれ、天と地を指さして
「天上天下唯我独尊。我、世に於いて無上尊となるべし」と獅子吼されました。
その時世界はそれを嘉し、大地は喜びにうち震え、天からは妙なる音楽が
聞こえ、花びらが舞い、甘露の雨が降ったと仏伝は伝えています。
もちろん、生まれて間もない赤ん坊が歩くはずもなく、世界が喜びに
うち震え、さまざま奇瑞をもたらした、などという話は荒唐無稽だと言えます。
しかし、そういう伝説の形を取ってまで、仏教は何を我々に伝えようとしている
のか、その事を尋ねることこそが大切なのです。
七歩、歩まれたのは、迷いの六道を超え、悟りの世界を示された、ということ
であり、「天上天下唯我独尊」とは、天の上にも天の下にも、今誕生したこの
お命は、掛け替えのないと尊いものなのだと、命の尊厳を高らかに宣言されたと
いただくべきで、まさに何ものにも比較のしようがなく、また比べる必要
もない、そんな「いのちの独立宣言」とも言いうるものなのです。
また、私たちが親しく頂く仏説阿弥陀経にも、極楽浄土の蓮の花のお譬えが
出てまいります。曰く「極楽浄土の七宝の池には、さまざまな蓮の花が咲いて
いる。それは荷車の車輪の如く大きく、青い蓮の花は青い光、黄色い蓮の花
には黄色い光、赤い蓮の花には赤い光、白い蓮の花には白い光、それぞれが
それぞれの光を命一杯輝かせ、しかも互いに邪魔にはならない。」と、まさに
いのちの本質は、あらゆる比較を超えた尊さにこそあると教えられるのです。
坊守便り
ー民生委員勤続十五年表彰を頂きましたー
民生委員・児童委員の行事もコロナ禍のため中止が多く、今年は久し振りに
行われました。
中之島にある国際会議場で、地区からは代表二名と表彰者の参加で大会が
行われました。
今までは、会場の遠く後ろの席から舞台を眺めていましたが、今回は前の席で
松井市長からの祝辞を頂きました。
講師は、厚生労働省事務次官をされていた村木厚子さんでした。
障害者郵便悪用事件に巻き込まれるなか、検察の不正に立ち向かい、無実を
勝ち取られた不屈の方です。
案内を見たときから楽しみにしていました。現在は孤独孤立対策担当室政
策参与をされているということです。
全国二万人に調査を行った年代別の結果、三十代、次いで二十代と若者の
孤独が深いということでした。
長時間労働や地方転勤、職場のいじめ等で生きづらい昨今、支援が届きにくい
という事でした。
孤独を生まない街作りは、「街中保健室」や「生き心地のよい街」などの提案から、
お寺の役割にも通じることだと聞かせて頂いた事でした。
十一月の行事
6 日(日)午後1時〜
宗祖親鸞聖人ご誕生八五〇年・立教開宗八〇〇年予修、
本堂大屋根修復、境内諸施設整備奉告法要
10日(木)午前10時半〜ピラティス
12日(土)午後2時〜 報恩講
午後5時頃〜御伝鈔拝読
24日(木)午前10時半〜ピラティス
十二月の行事
10日(土)午後2時〜祥月講・同朋の会聞法会
8 日(木)午前10時半〜ピラティス
22日(木)午前10時半〜ピラティス
25日(日)午後2時〜おみがき清掃ご奉仕
*感染予防には十分配慮し、各行事を行いますが、感染がさらに拡大した
場合、変更もしくは中止する場合がございます。
迷いは
何十年座禅しても消えない。
でもその迷いのおかげで
自らの迷いから問われている。
その迷いのおかげで
また一歩踏み出そうという
勇気をいただいている。
毎日毎日
自らの迷いのお世話になりながら
これからも
安心して迷っていこうと思います。
ドイツ人禅僧ネルケ無法
青色青光
朝目を覚ましたその瞬間から、夜眠りに
つくその時まで、私たちは常に迷いと不安の中にあります。
それこそ些細な日常生活の迷いから、ひとはどう生きるべきなのか、などと
いう人生の根本に対する迷いまで、常に迷いとそこに生まれる不安と共にある
のが、私たちの有り様なのでしょう。
上記は、足かけ三十年間日本で禅の修行を続けておられる、ドイツ生まれの
禅僧ネルケ無法さんの言葉で、ややもすれば私たちは、自分自身が抱え持つ
迷いや不安が克服される、そのことこそが悟りなんだと、どこかで思い違いを
してはいないかと、問うてきます。
そこで改めて思い出されますのは、故松本梶丸師が度々紹介された、
金沢ヨンさんという篤信のお婆さんの話です。
このヨンさんのところに、ある新興宗教の方がおふたり来られて
「お婆ちゃん、毎日不安がいっぱいあるやろ。私らその不安を取り除いて
あげるお手伝いをしてるねん。一遍、話聞きに来えへんか?」とのお誘いに、
「ほんまに不安だらけの世の中、あんたらご苦労様な事やねえ。けどな、この
不安あんたらにあげてしもうたら、ウラ何を頼りに生きていったらエエがやろ
、不安は私の命やもん。」と、不安があるからこそ仏法に私を尋ね、地に
足付いた歩みをせずにおれない、との言葉に思わず「ばあちゃんの背中から
後光が差しとる」と言い残し帰って行かれたそうです。
住職日々随想
「上見て暮らすな、下見て暮らせ」
などとよく言われます。しかしよくよく考えてみますと、そこには下目に見る
者がなければ、自身を受け入れることが出来ず、さらには下目に見る者が
いなければ、むりにでもそういった者を作り出さずにはおれない、そのような
ゆがんだ満足を求めるこころが、抜きがたくあるのではないでしょうか。
常に他と比較し、一喜一憂するこころ、高上がりして、他を見下す「驕慢」、
逆に「どうせ私なんか…」と、自己軽蔑する「卑下慢」、さらには、
「あんたもわたしもちょぼちょぼや」というこずるいこころを「等慢」と言い、
いずれも仏教では「慢心」として戒めています。
いかにも尊大に振る舞っているひとも、実は強烈な劣等感にさいなまれ、
内なる不安を覆い隠すために激しく他を攻撃するということがあります。
一例を挙げれば、ロシアのプーチン大統領などがそうでしょう。
欧米に対する強烈な劣等感が、隣国に支配の手を伸ばし、旧ソ連のような
偉大な国を復活させたい、という野望に結びついているのではないでしょうか?
実に慢心にとらわれていだく劣等感ほど、ある意味、危険なものはありません。
お釈迦様はお生まれになってすぐに七歩、歩まれ、天と地を指さして
「天上天下唯我独尊。我、世に於いて無上尊となるべし」と獅子吼されました。
その時世界はそれを嘉し、大地は喜びにうち震え、天からは妙なる音楽が
聞こえ、花びらが舞い、甘露の雨が降ったと仏伝は伝えています。
もちろん、生まれて間もない赤ん坊が歩くはずもなく、世界が喜びに
うち震え、さまざま奇瑞をもたらした、などという話は荒唐無稽だと言えます。
しかし、そういう伝説の形を取ってまで、仏教は何を我々に伝えようとしている
のか、その事を尋ねることこそが大切なのです。
七歩、歩まれたのは、迷いの六道を超え、悟りの世界を示された、ということ
であり、「天上天下唯我独尊」とは、天の上にも天の下にも、今誕生したこの
お命は、掛け替えのないと尊いものなのだと、命の尊厳を高らかに宣言されたと
いただくべきで、まさに何ものにも比較のしようがなく、また比べる必要
もない、そんな「いのちの独立宣言」とも言いうるものなのです。
また、私たちが親しく頂く仏説阿弥陀経にも、極楽浄土の蓮の花のお譬えが
出てまいります。曰く「極楽浄土の七宝の池には、さまざまな蓮の花が咲いて
いる。それは荷車の車輪の如く大きく、青い蓮の花は青い光、黄色い蓮の花
には黄色い光、赤い蓮の花には赤い光、白い蓮の花には白い光、それぞれが
それぞれの光を命一杯輝かせ、しかも互いに邪魔にはならない。」と、まさに
いのちの本質は、あらゆる比較を超えた尊さにこそあると教えられるのです。
坊守便り
ー民生委員勤続十五年表彰を頂きましたー
民生委員・児童委員の行事もコロナ禍のため中止が多く、今年は久し振りに
行われました。
中之島にある国際会議場で、地区からは代表二名と表彰者の参加で大会が
行われました。
今までは、会場の遠く後ろの席から舞台を眺めていましたが、今回は前の席で
松井市長からの祝辞を頂きました。
講師は、厚生労働省事務次官をされていた村木厚子さんでした。
障害者郵便悪用事件に巻き込まれるなか、検察の不正に立ち向かい、無実を
勝ち取られた不屈の方です。
案内を見たときから楽しみにしていました。現在は孤独孤立対策担当室政
策参与をされているということです。
全国二万人に調査を行った年代別の結果、三十代、次いで二十代と若者の
孤独が深いということでした。
長時間労働や地方転勤、職場のいじめ等で生きづらい昨今、支援が届きにくい
という事でした。
孤独を生まない街作りは、「街中保健室」や「生き心地のよい街」などの提案から、
お寺の役割にも通じることだと聞かせて頂いた事でした。
十一月の行事
6 日(日)午後1時〜
宗祖親鸞聖人ご誕生八五〇年・立教開宗八〇〇年予修、
本堂大屋根修復、境内諸施設整備奉告法要
10日(木)午前10時半〜ピラティス
12日(土)午後2時〜 報恩講
午後5時頃〜御伝鈔拝読
24日(木)午前10時半〜ピラティス
十二月の行事
10日(土)午後2時〜祥月講・同朋の会聞法会
8 日(木)午前10時半〜ピラティス
22日(木)午前10時半〜ピラティス
25日(日)午後2時〜おみがき清掃ご奉仕
*感染予防には十分配慮し、各行事を行いますが、感染がさらに拡大した
場合、変更もしくは中止する場合がございます。
posted by ansenji at 00:32| Comment(0)
| 法悦