2023年11月30日

2023年12月

 法 悦 12月号 879号

 故法然聖人は、

「浄土宗のひとは愚者になりて往生す」と

候いしことを、

たしかにうけたまわり候いしうえに、

ものもおぼえぬ

あさましき人々のまいりたる御覧じては、

往生必定すべしとて

笑ませたまいしを見まいらせ候いき。

ふみざたして、

さかさかしきひとのまいりたるをば、

往生はいかがあらんずらんと、

たしかにうけたまわりき。

 いまにいたるまでおもいあわせられ候うなり。

         「末燈鈔」 親鸞聖人八十八歳
青色青光
 上記の文章は九十歳でご往生された
親鸞様の最晩年のお手紙です。
 二十九歳で法然上人の吉水門下に
入られてからの六年間に、見聞きされた事がらの中でも、とりわけ晩年に
至るまで大切に臆念し続けられたエピソードであり、師、法然上人の
お言葉にいかに深く感銘を受けられたかが、うかがい知れるものです。
 法然上人の吉水の草庵には、高位の貴族から遊女や盗賊上がりの者まで、
身分の違いを超え老若男女、様々な人々が寄り集い、師の説法を聴聞して
おりました。
 師は文字も読めない人々が、阿弥陀様の大悲のご本願を深く信じ、素直に
尊んでおられる様子をご覧になって「あの人たちの浄土往生は間違いなし」
と微笑まれ、知的関心から議論する人々をご覧になっては、「あの者たちの
往生は大丈夫だろうか?」と仰せになられた事を確かに拝見しました、
と記しておられます。
 そのことを親鸞様は六十年以上経っても常に新鮮に臆念し続け、自ら
「愚禿釋親鸞」と名乗られました。
 それは自力の執心を離れ、仏願力に乗じて深く自らの身の事実に
帰せられた、魂の名乗りに他なりません。

住職日々随想
 今年も南御堂、東本願寺、各末寺、それぞれで報恩講が厳修されました。
 真宗門徒の生活は「報恩講に始まり報恩講に終わる」と言い習わされて
まいりましたように、宗祖親鸞聖人の祥月命日の法要を、なによりも
大切に受け伝えてまいりました。
 報恩講の「報恩」は、仏恩や師の恩に報いるという意味ももちろん
有りますが、恩を報せるという意味もあり、お念仏の慶びを縁ある人々に
報せ、伝え続けていくという意味も含まれてあるのです。
 また、多くの宗教が、教祖誕生の日を一番の祝祭日とするのとは真逆に、
真宗門徒は親鸞聖人のご往生の日を無二の勝縁とし、相前後して祥月命日の
法要「報恩講」を営みます。
 それは誕生ということよりも、浄土往生の素懐を遂げるということが、
人間成就の最後にして最重要な一点であることが、真宗門徒の内に深く
了解されてきたからに他ならないのです。
 蓮如上人は御文の中で親鸞様のご命日を、明日(めいにち)と書き表して
おられますが、そこには宗祖のご命日を、自身のいただいたご信心を
明らかにし、信心の溝をさらう機縁とすべし、という深い願いが込められ
ているのです。
 また、往生という事について、親鸞聖人のお言葉を聞き取られた
唯円大徳が書き記された、歎異抄の第九条に、「師のみ教えをお聞かせ
いただき、誠に有り難いと思うのですが、すぐに喜びが消えてしまい長続き
しません。また、いかにお浄土の徳をお聞きしても、一向に急ぎ参りたいと
思えないのは、いったいどうしたわけでしょうか?」とお尋ねすると、
「お前もそうか、私も同じだ。無上の喜びに躍り上がっても不思議ないのに
、喜べないのは煩悩が盛んな為なのだよ。遙か、いにしえより今日に至る
まで、迷いを重ね続けてきた苦悩に満ちた娑婆世界ほど、我ら愚かな凡夫の
心を捉えて放さないものはない。 
だから未だ往った事のない安養の浄土には心が赴かないんだ。それは迷いの
煩悩が、真実を見る眼を曇らせているからに他ならない。
 ところが頼もしい事に、そんな私たちを阿弥陀様は、とうにお見通しに
なって、そんな者だからこそ救いたいと、誓いを立てられ既に成就して
下さった。まさに往生は疑いようがない事実なのだ。
 だから、いかに名残惜しくても、娑婆の縁が尽き、いのち終えるとき、
かの安養の浄土へはまいるべきなのだよ…」と仰ったとあります。
この無碍の大道を明らかに示された親鸞聖人を師とも、人生を共に歩む
善知識、御同行・御同朋とも仰がんと、その思いを新たにするのが
報恩講なのです。

真宗入門
ー帰敬式(おかみそり)ー
 帰敬式とは、仏様の教えを依りどころとして、生きる者となる事を
誓う儀式です。
 阿弥陀如来さまの前で「三帰依文」を唱和して誓います。
 三帰依とは、真実に目覚められた「仏」、仏がお説き下さった
教え「法」、仏の説かれた法に生きる人々の集まり僧伽・サンガ「僧」。
「仏・法・僧」の三つの宝を敬う者となることです。
 儀式では、実際に髪を切ることはありませんが、執り行って頂くなかで、
かみそりが三度頭にあてられる、「剃刀の儀」が行われます。
 帰敬式を受式すると、お釈迦様の「釋」の一字を賜り、仏弟子としての
名告りを表す「法名」「釋○○」「釋尼○○」をいただきます。
私達の誕生での名前は、子供のお父さん・お母さんの願いがかけられて
名付けられますが、法名は仏さまの願いがかけられた名前と言っても
いいでしょう。
 帰敬式は本山・南御堂・お手次のお寺でも受けることが出来ます。

法語の味わい
「念仏とは 自己を発見することである」
                 ー金子大栄ー
 この言葉は、「歎異抄」の中に、何度も「念仏」という言葉が出て
くる事について、金子大栄先生が明快に示して下さった言葉です。
 私達は困り事や悲しい事、嬉しくてたまらない事に出会った時に、
お念仏が口からこぼれる事はないでしょうか。
「私に取ってきわめて明瞭な事は、『念仏申す、そこに自己あり』
であります。
 何の難しい事を言わなくても、手を合わせ念仏するとき、そこに
自己があり、そこに自分の存在の場も見いだされます。
自分を発見する場が念仏といえます。
 そして、その自分に気づかせて下さるのが阿弥陀様であります。」
と、教えてくださいます。

坊守便り ー 初参式 ー
 同朋会役員の貝増克之・正英さんご夫妻から、三男に子供が
生まれたのでお寺に初参りいたしますと連絡が入りました。
おめでたいお知らせです。
 同朋会でいつも仏具磨きにお越し頂いた大森幸子さんを八月に、
一緒に民謡踊りを踊り、ここ二回の法要の庭儀(パレード)にも
ご本人、お孫さんも出て頂いた岸本晴美さんを十月に、お見送り
してさみしい事でした。
 お寺では、長くご縁のある方がお浄土に帰られ、仏となられる
お見送りと共に、新しい命の誕生もお迎えいたします。
 赤ちゃんにお父さんとお母さんがあり、そのお父さんとお母さんにも、
お父さんとお母さんがあり、永遠のいのちの繋がりの中で、まばゆい
光につつまれた阿弥陀様に、人として生まれて来た、またとない
喜びの祝福をいただきます。
 初参式はお寺の法要のなかでも、特におめでたい法要です。
お勤めさせて頂き有り難いことでした。

十二月の行事
3 日(日)秋の一日バスツアー
 「南都六宗 二大本山を訪ねて」
7 日(木)午前10時半〜 ピラティス

17日(日)午後2時〜
    年末おみがき・大掃除ご奉仕・年末茶話会

21日(木)午前10時半〜 ピラティス   

31日(日) 夜11時半〜 歳暮勤行 除夜の鐘

一月の行事
14日(日)正午〜  同朋の会・新年互礼会
           詳細は後日、ご連絡致します。
18日(木)午前10時半〜 ピラティス

25日(木)午前10時半〜 ピラティス


*前住職病気療養中のため、先月号より坊守が
 3・4ページのコラムを担当いたしております。
*感染予防には十分配慮し各行事を行いますが、感染が
 再拡大した場合、変更もしくは中止する事がございます。 

法味寸言
 迷うということは 自覚の第一歩である  
                      曽我量深
 
























































































































































































































































posted by ansenji at 22:58| Comment(0) | 法悦

2023年11月14日

2023年11月

 法 悦 11月号 878号

  「生」

ものを取りに部屋に入って

何を取りに来たのか忘れて

戻ることがある

戻る途中で

ハタと思い出すことがあるが

その時はすばらしい


身体が先にこの世に出てしまったのである

その用事が何であったか

いつの日か思い当たる時のある人は幸福である

思い出せぬまま

僕はすごすごあの世へ戻る

         詩人 映画評論家 杉山平一

青色青光
 以前にも少し触れましたが、故、児玉暁洋師が「人間は真実したい事をし、
なりたい者になる為なら、何をしても許されるのだ。」と仰っておられ
ましたが、ひとは誰しも、誰を父に誰を母に、どこそこに生まれようと、
選んで生まれたのではなく、気がついたらここに、男として、あるいは
女として生まれていた。
 まさに生まれ出でたその時から、与えられた縁のままに生を受け、
与えられた縁のままにその生を閉じるしかない存在、にもかかわらず、
間だけは何とか思い通りにしたい、否、思い通りにならないことに
我慢ならないと。 人間の願いは二重底、表面的にはああもしたい、
こうなりたいと迷い悩み続けますが、いのちの底では本当にうなずける
ものに出遇いたい、真実の願いに生きるものとなりたい、「それで良いのか、
満足して生き、満足して死んでいけるのか」とこの身の有り様を問い続け
てくる、志願が流れ続けているのです。
 無量無数のご先祖や先達方が、その志願に自らを問い続け、歩まれた。
それが念仏の歴史ではないでしょうか。

住職日々随想

「どうして人を殺してはいけないんですか?」
一人の青年がそう問いを発したとき、その場にいた大人も他の若者たちも
、誰も応えられずに押し黙ってしまい、その青年の問いにひりつく雰囲気
のまま、話題が変わっていってしまいました。
 これはずいぶん以前になりますが、夜分に放送されていた
『十代しゃべり場』というNHKの若者討論番組での一場面です。
彼の問いそのものも衝撃的でしたが
、それにも増して、誰からもまともな応答がされなかったことに、ショックを
受け深く考えさせられました。
 ウクライナへのロシア、プーチン政権による侵略戦争や、パレスチナ・ガザ
地区のハマスによる奇襲攻撃とイスラエルの報復攻撃など、世界各地における
紛争で多くの血が流され、今も日々いのちが奪われ続けています。
 冒頭の問いを発した青年も「一人ひとりのいのちはかけがえがなく、それは
地球よりも重いのだ」と、幾度となく聞かされ、うなずいてきたはずですし、
誰かを傷つけ命を奪うことは、なんびとたりとも許されないと理解している
はずです。
 しかし世界は全くそうはなっていないじゃないかと、その現実に対する強い
憤りと抗議の意志が、この問いには込められていたと思うのです。
 法蔵菩薩が兆歳永劫のご修行を経て、阿弥陀仏と成られるにあたって
誓われた、四十八願の第一に「無三悪趣(むさんまくしゅ)の願…我が国、
浄土には地獄・餓鬼・畜生なからん」が掲げられています。
 地獄とは、まさに人と人とが傷つけ合い殺し合う世界、餓鬼とは、決して
満足することのない無限の欲望の支配する世界、そして恥じる心を失って、
強いものにこびへつらい、弱き者を虐げる畜生の世界。
 これら三悪趣のない世界が浄土であり、阿弥陀仏のご本願として表現された、
国の違い、民族の違い、それこそ宗教の違いをも超えて、すべての命の底に
流れ続ける一切衆生の本有の願い、まさに願心によって荘厳された世界
なのです。
 本来、「浄土」は西方の彼方にあって、死後赴くべき世界、というよりも、
この迷いしかない娑婆世界に、本来の願いの世界に帰せよと、願心を送り続け、
このわたしの上にはたらき続ける、はたらきそのものであり、この仏の願心を
念ずるところに、我が身の有り様を痛み悲しむまなこを凡夫に与え続ける
ものなのです。
 北陸の篤信のお同行の中には、阿弥陀仏を「はたらき様」と表現される方も
おられます。まさに名詞としてではなく、動詞としての浄土が今も活き活きと、
このわたしの上にもはたらき続けていて下さるのです。

真宗入門

ー 「門徒」ー
 浄土真宗の教えを頂く人の事を「門徒」と言いますが、「檀家」と呼ぶ人
もいます。どんな違いがあるのでしょうか。 
「門徒」とは浄土門の徒輩(ともがら)という意味で共にお念仏の教えに生きる
人々の事をいいます。「檀家」とは、江戸時代に幕府が政策の一環として
行った「寺請制度」(檀家制度)により住民が特定の寺院に所属する事が
義務づけられ寺院は戸籍台帳を作り所属を証明していました。
 その後、明治政府によりこの制度は廃止されましたが、現在でも檀家という
呼び名が使われています。
 「門徒」はもともとは、広く同じ門流に属して信仰を共にする人々を指して
用いられていましたが、本願寺第八代蓮如上人が「御文」などで、門徒という
言葉を多く用いられたことから、浄土真宗を拠りどころとするものの呼び名
となり、現在でも浄土真宗の教えをいただく人々を指す言葉として、
一般的に使われています。

法語の味わい

「生の依りどころを与え

 死の帰するところを与えていくのが

 南無阿弥陀仏」

 金子大栄先生は念仏もうす事において、死の「帰するところをもって、生の
依りどころとするということに、浄土の教えの性格がある」といわれます。
 私達は死を怖れて忌み嫌い、生の充実をもとめます。目の前の利益を
もとめて右往左往する日暮らしに明け暮れ、やがて後悔と不安が残るの
ではないでしょうか。
 仏の教化を受けて帰るべきところがはっきりすれば、今までの生き方は
変わってきます。帰る家がはっきりすると安心して家路につくことが出来る
のですね。
金子先生は「心おきなく死んでいけるところが見つかるのであれば、それが
本当の生の意義」と教えておられます。

坊守便り ー 秋の日帰りバス旅行 ー
「南都六宗 二大本山を訪ねて」 
 同朋会をはじめ安泉寺ご門徒の皆様と、毎年貸し切りバスで古寺巡拝を行い、
たいへんご好評を頂いております。
 コロナ禍でお休みさせて頂いておりましたが、4年ぶりに開催いたします。
大和路・南都六宗の本山、唐招提寺・興福寺へご一緒にお参り致しましょう。
 唐招提寺は律宗の総本山です。当時、危険な船の旅に5回も失敗を繰り返し、
失明しながらも、ようやく6度目に日本にたどり着かれた、鑑真和上の
開かれたお寺です。
 世界遺産にも登録された金堂をはじめ、歴史ある建造物や宝物が多く有り、
平城京の持つおおらかさを感じる事が出来るでしょう。
 また、安泉寺住職の大学時代の友人が、現在管長を勤めておられますので、
是非お訪ねしたい事です。
 興福寺は法相宗の大本山、五重塔をはじめ金堂や北円堂などの建造物、
有名な阿修羅像などがあり、天平文化の面影を偲ぶ事ができます。
 また、ご当地グルメを頂き、ならまちの散策を楽しみましょう。お誘い
合わせの上ぜひご参加下さい。

十一月の行事
5 日(日) 午後1時〜 おみがき・清掃奉仕
12日(日) 報 恩 講 昼2 時 大 逮 夜
            引き続き 御伝鈔拝読
ご講師 泉大津 南溟寺 戸次公正師
16日(木) 午前10時半〜 ピラティス
30日(木) 午前10時半〜 ピラティス

十二月の行事
3 日(日) 秋の一日バスツアー
 「南都六宗 二大本山を訪ねて」
7 日(木) 午前10時半〜 ピラティス
17日(日) 午後2時〜
    年末おみがき・大掃除ご奉仕・年末茶話会
21日(木) 午前10時半〜 ピラティス   
31日(日) 夜11時〜 歳暮勤行
             除夜の鐘

*前住職病気療養中のため、今月号より 坊守が3・4ページのコラムを担当
 いたしております。

*感染予防には十分配慮し各行事を行いますが、感染が 再拡大した場合、
変更もしくは中止する事がございます。 

 
























































































































































































































































 法 悦 11月号 878号

  「生」

ものを取りに部屋に入って

何を取りに来たのか忘れて

戻ることがある

戻る途中で

ハタと思い出すことがあるが

その時はすばらしい


身体が先にこの世に出てしまったのである

その用事が何であったか

いつの日か思い当たる時のある人は幸福である

思い出せぬまま

僕はすごすごあの世へ戻る

         詩人 映画評論家 杉山平一
青色青光
 以前にも少し触れましたが、故、児玉暁洋師が「人間は真実したい事をし、なりたい者になる為なら、何をしても許されるのだ。」と仰っておられましたが、ひとは誰しも、誰を父に誰を母に、どこそこに生まれようと、選んで生まれたのではなく、気がついたらここに、男として、あるいは女として生まれていた。
 まさに生まれ出でたその時から、与えられた縁のままに生を受け、与えられた縁のままにその生を閉じるしかない存在、にもかかわらず、間だけは何とか思い通りにしたい、否、思い通りにならないことに我慢ならないと。 人間の願いは二重底、表面的にはああもしたい、こうなりたいと迷い悩み続けますが、いのちの底では本当にうなずけるものに出遇いたい、真実の願いに生きるものとなりたい、「それで良いのか、満足して生き、満足して死んでいけるのか」とこの身の有り様を問い続けてくる、志願が流れ続けているのです。
 無量無数のご先祖や先達方が、その志願に
自らを問い続け、歩まれた。それが念仏の
歴史ではないでしょうか。
住職日々随想

「どうして人を殺してはいけないんですか?」
一人の青年がそう問いを発したとき、その場にいた大人も他の若者たちも、誰も応えられずに押し黙ってしまい、その青年の問いにひりつく雰囲気のまま、話題が変わっていってしまいました。
 これはずいぶん以前になりますが、夜分に放送されていた『十代しゃべり場』というNHKの若者討論番組での一場面です。彼の問いそのものも衝撃的でしたが、それにも増して、誰からもまともな応答がされなかったことに、ショックを受け、深く考えさせられました。
 ウクライナへのロシア、プーチン政権による侵略戦争や、パレスチナ・ガザ地区のハマスによる奇襲攻撃とイスラエルの報復攻撃など、世界各地における紛争で多くの血が流され、今も日々いのちが奪われ続けています。
 冒頭の問いを発した青年も「一人ひとりのいのちはかけがえがなく、それは地球よりも重いのだ」と、幾度となく聞かされ、うなずいてきたはずですし、誰かを傷つけ命を奪うことは、なんびとたりとも許されないと理解しているはずです。
 しかし世界は全くそうはなっていないじゃないかと、その現実に対する強い憤りと抗議の意志が、この問いには込められていたと思うのです。
 法蔵菩薩が兆歳永劫のご修行を経て、阿弥陀仏と成られるにあたって誓われた、四十八願の第一に「無三悪趣(むさんまくしゅ)の願…我が国、浄土には地獄・餓鬼・畜生なからん」が掲げられています。
 地獄とは、まさに人と人とが傷つけ合い殺し合う世界、餓鬼とは、決して満足することのない無限の欲望の支配する世界、そして恥じる心を失って、強いものにこびへつらい、弱き者を虐げる畜生の世界。
 これら三悪趣のない世界が浄土であり、阿弥陀仏のご本願として表現された、国の違い、民族の違い、それこそ宗教の違いをも超えて、すべての命の底に流れ続ける一切衆生の本有の願い、まさに願心によって荘厳された世界なのです。
 本来、「浄土」は西方の彼方にあって、死後赴くべき世界、というよりも、この迷いしかない娑婆世界に、本来の願いの世界に帰せよと、願心を送り続け、このわたしの上にはたらき続ける、はたらきそのものであり、この仏の願心を念ずるところに、我が身の有り様を痛み悲しむまなこを凡夫に与え続けるものなのです。
 北陸の篤信のお同行の中には、阿弥陀仏を「はたらき様」と表現される方もおられます。まさに名詞
としてではなく、動詞としての浄土が、
今も活き活きと、このわたしの上にも
はたらき続けていて下さるのです。
真宗入門

ー 「門徒」ー
 浄土真宗の教えを頂く人の事を「門徒」と言いますが、「檀家」と呼ぶ人もいます。どんな違いがあるのでしょうか。
 「門徒」とは浄土門の徒輩(ともがら)という意味で共にお念仏の教えに生きる人々の事をいいます。「檀家」とは、江戸時代に幕府が政策の一環として行った「寺請制度」(檀家制度)により住民が特定の寺院に所属する事が義務づけられ、寺院は戸籍台帳を作り所属を証明していました。
 その後、明治政府によりこの制度は廃止されましたが、現在でも檀家という呼び名が使われています。
 「門徒」はもともとは、広く同じ門流に属して信仰を共にする人々を指して用いられていましたが、本願寺第八代蓮如上人が「御文」などで、門徒という言葉を多く用いられたことから、浄土真宗を拠りどころとするものの呼び名となり、現在でも浄土真宗の教えをいただく人々を指す言葉として、一般的に使われています。
法語の味わい

「生の依りどころを与え

 死の帰するところを与えていくのが

 南無阿弥陀仏」

 金子大栄先生は念仏もうす事において、死の「帰するところをもって、生の依りどころとするということに、浄土の教えの性格がある」といわれます。 私達は死を怖れて忌み嫌い、生の充実をもとめます。目の前の利益をもとめて右往左往する日暮らしに明け暮れ、やがて後悔と不安が残るのではないでしょうか。
 仏の教化を受けて帰るべきところがはっきりすれば、今までの生き方は変わってきます。帰る家がはっきりすると安心して家路につくことが出来るのですね。金子先生は「心おきなく死んでいけるところが見つかるのであれば、それが本当の生の意義」と教えておられます。
坊守便り ー 秋の日帰りバス旅行 ー
「南都六宗 二大本山を訪ねて」 
 同朋会をはじめ安泉寺ご門徒の
皆様と、毎年貸し切りバスで古寺
巡拝を行い、たいへんご好評を頂いております。
 コロナ禍でお休みさせて頂いておりましたが、4年ぶりに開催いたします。大和路・南都六宗の本山、唐招提寺・興福寺へご一緒にお参り致しましょう。
 唐招提寺は律宗の総本山です。当時、危険な船の旅に5回も失敗を繰り返し、失明しながらも、ようやく6度目に日本にたどり着かれた、鑑真和上の開かれてたお寺です。
 世界遺産にも登録された金堂をはじめ、歴史ある建造物や宝物が多く有り、平城京の持つおおらかさを感じる事が出来るでしょう。
 また、安泉寺住職の大学時代の友人が、現在管長を勤めておられますので、是非お訪ねしたい事です。
 興福寺は法相宗の大本山、五重塔をはじめ金堂や北円堂などの建造物、有名な阿修羅像などがあり、天平文化の面影を偲ぶ事ができます。
 また、ご当地グルメを頂き、ならまちの散策を楽しみましょう。お誘い合わせの上ぜひご参加下さい。
十一月の行事
5 日(日) 午後1時〜 おみがき・清掃奉仕
12日(日) 報 恩 講 昼2 時 大 逮 夜
            引き続き 御伝鈔拝読
ご講師 泉大津 南溟寺 戸次公正師
16日(木) 午前10時半〜 ピラティス
30日(木) 午前10時半〜 ピラティス

十二月の行事
3 日(日) 秋の一日バスツアー
 「南都六宗 二大本山を訪ねて」
7 日(木) 午前10時半〜 ピラティス
17日(日) 午後2時〜
    年末おみがき・大掃除ご奉仕・年末茶話会
21日(木) 午前10時半〜 ピラティス   
31日(日) 夜11時〜 歳暮勤行
             除夜の鐘

*前住職病気療養中のため、今月号より
 坊守が3・4ページのコラムを担当
 いたしております。

*感染予防には十分配慮し各行事を行いますが、感染が
 再拡大した場合、変更もしくは中止する事がございます。 
 3ページと4ページの間の言葉


生まれ出でくるいのちの営みもめでたいが

死んでいくいのちの営みも尊い   宮城 

 
























































































































































































































































posted by ansenji at 14:05| Comment(0) | なんでも質問箱