住職日々随想
「生きる意味がわからない」
これは、社会に大きな衝撃をもたらした、座間市の自殺念慮者男女九人連続殺人・死体損壊事件を引き起こした犯人が、父親にもらしたと言われる言葉です。
もちろん、自身の生きる意味がわからないからといって、短絡的に人を傷つけたり、命を奪ったりすることが、許されるはずもありません。
しかし、よくよく考えてみますと、意味の喪失から生まれた深い絶望が、時に人格を破壊し、狂気に陥らせるほどの負のエネルギーを持っていることを、我々はこの事件によって、改めて知らされたのではないでしょうか。
今ひとつ気づかされた大きな問題は、何故このような未来ある若い人たちが、自死するしかないとの思いにとらわれ、このような事件に巻き込まれてしまうのかということです。
これは「命のホットライン」のような、自殺念慮者と関わるボランティア活動に携わっている方が語って下さったことで、一人の自殺念慮男性とのやり取りの中で、確信に至ったというのですが…「死にたい人など本当は一人もいない。ただ生きるのがつらい、困難だ、もう死ぬしか解決の道はないのではないか、と思い詰める人はいる。だから本当に必要なのは生きる為の支援なんだ。今、支援する私が、何時、支援してもらわないといけなくなるか判からない。相互の支援が大切なんだ。」と。
実に人間はこの世に生まれて、生きる意味を求めずにはおれない存在ですし、それ故、意味を見出し得ない虚しさと、向き合わずには、生きていけない宿命を負う者でもあるのです。
明治を代表する仏者、清沢満之も「自己とはなんぞや、是れ人生の根本的問題なり。」と、生涯かけて出遇っていくべきものが、私という存在なんだと表しておられます。
ならば座禅でも組んで内観すれば、いつか見出せるのか?と、問われても、それは我々凡夫には、そう容易なものではないでしょう。
私の内面をいくら掘り下げても、本当の自己には出遇えません。むしろ様々な関係性の中で、他者に投影する私、そして、その私を映し出す鏡としての仏法に、私を尋ねていかなければ、この時々刻々と変化し続ける、自己との出遇いを果たすことなど、ありえないことなのです。
仏法は私が立ち上がり、歩み出す時、初めて「仏道」として開かれ、先人たちの苦難の足跡もそこに見出されてくるのです。
親鸞聖人はその主著、教行信証の最後に、安楽集の文を引かれ「真言を採り集めて、往益を助修せしむ。何となれば、前に生まれん者は後を導き、後に生まれん者は前を訪え、連続無窮にして、願わくは休止せざらしめんと欲す。無辺の生死海を尽くさんがためのゆえなり」と、表白しておられるのです。
十二月の行事
2 日(土)午後4時〜 祥月講・同朋の会
ご法話 専光寺若院 島 大史師
3 日(日) 日帰りバスツアー
鷺の森別院・根来寺・九度山
12日(火)午後2時〜 門徒女性聞法の集い
浄土和讃28
14日(木)午後2時〜 仏教民謡踊りの会
15日(金)午後2時〜 仏教コーラスの会
17日(日)午後2時〜 おみがき清掃ご奉仕
年末懇親会
31日(日)夜11時半〜歳暮勤行・除夜の鐘
一 月の行事
11日(木)午後2時〜 仏教民謡踊りの会
12日(金)午後2時〜 仏教コーラスの会
21日(日)正 午〜 安泉寺新年互礼会
*一月の門徒女性聞法の集いはお休みです。。
*本堂内すべて椅子席、床暖房完備、
どなた様 もお気軽に。
2017年11月26日
12月住職日々随想
posted by ansenji at 14:31| Comment(0)
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