2020年04月26日

2020年4月

法 悦 四月号 835号

 ごはんの時に 六年 山崎まどか(抜粋)

人間は、生きるために

にわとりも殺さなくちゃいけないし

豚も殺さなくっちゃならない。

生きてるっていうことは

ずいぶん迷わくをかけることなんだ。

自分で自分のこと全部できたら

人は一人ぽっちになってしまう。

他人に迷わくをかけるということは

その人とつながりをもつことなんだ。

他人の世話をすることは

その人に愛をもつことなんだ。

生きるっていうことは

たくさんな命とつながりをもつことなんだ。

青色青光

 核家族化が問題にされ始めた頃から
半世紀、今や日本人のおよそ四割が
一人暮らし、という時代になりました。
 一人一人の思いの叶うことこそが幸せと、人類はたゆまぬ努力を重ね、様々に社会を変革し、進歩させてきました。おかげで今や一人の人と話すこともなく、一日を終え、生きることすらできるようになりました。
 しかし、それで私たちは本当に幸せになった、と言えるのでしょうか?
 源信僧都はその主著「往生要集」に、地獄の最も底、無間地獄(阿鼻地獄)において、永遠に落ち続けていく罪人が、周りに同じく落ちていく無数の罪人がいながら「我、今、帰するところ無く、孤独にして同伴無し」と叫びを上げる、と説いておられます。まさに私たちのありようと重なってはいないでしょうか。
 私たちは、しばしば他人様や子供たちには迷惑を掛けられん、などと口に致しますが、じつはそこには現に今も、迷惑をかけ続けずには生きられない、自身の罪業に無自覚で傲慢な姿があるのではないでしょうか。
 我が身の事実にまなこを開き、その罪業に目覚める中においてこそ、無量無数の繋がりに真の自己を見いだす、広大無辺な世界が開かれるのです。

住職日々随想         

 新型コロナウイルスの蔓延は、
今や人類全体の脅威となってしまい
ましたが、未だ収束のめどすら立ちません。
 そんな中、過日の新聞に、開店準備に行くと、すでにマスクなどを求める人々の行列が出来ており、また謝り続けないといけないのか、怒鳴られないといけないのかと気鬱になってしまう、ウイルスよりも人間の方がよほど怖いという、ドラッグストアの方々の悲鳴に近い思いが掲載されていました。
 人々の不安や不満、いらだちが、より弱い立場の者に向けられるという、その浅ましさには悲しみを禁じ得ませんが、そういった浅ましさは決して他人ごとなどではありません。
 歎異抄に「さるべき業縁のもよほさば、いかなるふるまいもすべし。」という親鸞聖人のお言葉が出てきますが、ひとは善人だから悪は犯さないとか、悪人だから悪事をなすなどとは言えず、縁次第では他人を傷つけ、場合によっては殺人を犯す事すらある、まさに業縁存在であると述べられています。
 三月十六日に一審、死刑判決の下された、相模原障がい者施設大量殺害事件の犯人が、その動機として語った「生産性のないものは生きる意味がない」という思考もまた、世界的に広がる排外主義的な風潮と軌を一にしているように思われますが、悲しいかな、自身の中に同様の見方を見い出す事さえ、さほど難しいことではありません。
 親鸞聖人の尊ばれた七高僧のお一人である、唐の善導大師が「経ヘは之を喩(たと)ふるに鏡の如し、數々(しばしば)讀み、數々尋ぬれば、智慧を開發(かいほつ)す。若し智慧の眼開けぬれば、即ち能く苦を厭ひて涅槃等を欣樂(ごんぎょう)することを明す。」
と、仏陀のみ教えを鏡として、我が身我が心をしばしば照らしてみれば、自ずと智慧のまなこが開かれ、真実のお悟りを願って生きる身となるとお示し下さっています。
 こういう不安の世の中だからこそ、ただ流され続けるのでなく、仏教に我が身を問う、深く生きる知恵を賜り続けたいものです。

四月の行事

18日(土)午後4時〜
        祥月講・同朋の会

五月の行事

14日(木)午前10時半〜
        ピラティス

16日(土)午後4時〜
                   祥月講・同朋の会
21日(木)午後1時〜
         仏教民謡踊りの会

22日(金)午後2時〜
         仏教コーラスの会

28日(木)午前10時半〜
         ピラティス


*四月の諸行事は、新型コロナウイルス
 のさらなる感染終息の見通しが立たない現段階では実施が困難となっております。
 祥月講・同朋の会のみ、内勤めの形で勤行致します。
 感染予防にご留意の上、お参り下さいませ。


posted by ansenji at 23:38| Comment(0) | 法悦
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