2025年12月31日

2026年1月

 法 悦1月号 904号

ちょうどよい     藤場 美津路

お前はお前でちょうどよい
顔も体も名前も声も
お前にそれはちょうどよい
貧も富も親も子も
息子の嫁もその孫も
それはお前にちょうどよい
歩いたお前の人生は
悪くもなければ良くもない
おまえにとってちょうどよい
地獄へ行こうと、極楽へ行こうと
行ったところがちょうどよい
うぬぼれる要もなく、卑下する要もない
上もなければ下もない
死ぬ月日さえもちょうどよい
仏さまと二人連れの人生
ちょうど良くないはずがない            

青色青光
 それこそならい性のように、私たちは自分の「思いの物差し」で様々比較し一喜一憂いたします。
 物事がうまく運ばなかったときや、迷いの中答えが出ずに苦しんでいるそんなとき、自らと他を比較して、もっと恵まれた環境だったらとか、もっと理解のある家族だったらだとか、もっと違った人生があったのではとか、この思いの物差しで自分や他者を切り裁いたりも致します。
 私の力で自らを鼓舞し、自らを支えることには必ず限界があります。
 しかし、そんな私を阿弥陀如来は最初から包み、「それで良い、そのままのあなたで良い」と私の気づきを待ち続けていて下さるのです。
 それは理屈などではなく、その願心に荘厳された世界に、生かされ続けてきたわが身の事実に、深く頷くことが出来るのか、それとも自分とは無関係な単なる物語と切り捨てるのか、親鸞様は「深信自身」、移ろい続ける我が心ではなく、わが身の事実に帰れと促し続ける阿弥陀の願心、他力の大いなるまことに目覚めて生きよ、と呼びかけ続けていて下さるのです。
 まさに「ちょうど良い」とこの身に響いたとき、願心にまかせきる「憶念の信」が生まれるのです。

住職日々随想
 「むしゃくしゃして殺った。相手は誰でもよかった。」 とは、通り魔殺人を犯した容疑者の多くが口にする言葉です。
確かに思うに任せぬ人生、複雑化する社会に、現代人の誰もがむしゃくしゃした経験の一つや二つは持っているでしょう、が、だからと言って、誰もが表に出て人を刺し殺そうなどとは思いません。
 思うに他人を傷つけずに居れないほどの、深い孤独、自らの居場所を失って、底知れぬ絶望感に支配されてしまっている魂の疼きが、そこにはあるのではないでしょうか。
「相手は誰でもよかった。」 しかし本当にそうでしょうか? 実はその言葉の奥には、本当に葬り去りたい相手がいるのです。
それは自分自身に他なりません。つまり「拡大自殺」と捉えることが正しい理解なのです。
自死願望には、大きく分けて二つの類型があります。
一つには一人で死ぬもので、自責の感情が強い傾向を持つものです。
もう一つは、他者を巻き込む拡大自殺で、多分に他責の感情の強い人に見られるもので、池田小学校の事件の犯人が「世の中の奴は皆んな敵だ。」と繰り返していた事からも明らかです。
いつも自信に満ちあふれ、なんの迷いもなく生きている人など一人もいません。
迷いと弱さを抱え生きる、まさに凡夫同士のこの世の中、「辛いんだ。寂しいんだ。悲しいんだ。苦しいんだ。」と、声を上げ助けを求めることができる人こそが、本当に強い人なのです。
分けてもわたしの存在そのものを受け止めて下さる、我が名称えよ必ず救わんとの阿弥陀仏のお誓いが、何にもまして頼もしく思われるのです。
この事を明治の先達清沢満之師は
「我、他力の救済を念ずる時は、我が世に処するの道開け、我、他力の救済を忘るるときは、我が世に処するの道閉づ。
 我、他力の救済を念ずる時は、我、物欲の為に迷はさるること少く、我、他力の救済を忘るる時は、我、物欲の為に迷はさるること多し。
 我、他力の救済を念ずる時は、我が処するところに光明し、我、他力の救済を忘るる時は、我が処するところに黒闇覆う。
 ああ、他力救済の念は、よく我をして迷倒苦悶の娑婆を脱して、悟脱安楽の浄土に入らしむが如し。」と表白されました。                

真宗入門 ー袈 裟ー

 僧侶が衣の上に身につけているものを袈裟と呼びますが、いったいどういう意味やいわれがあるのでしょうか?
 袈裟は古代サンスクリット語でカシャーヤ、つまり茶褐色という意味で、他宗教の修行者と区別するために定められた色を指す言葉でした。
 原始仏教教団の修行僧は、托鉢用の鉢と、使い古して他に用途の無くなったぼろ切れを縫い合わせた、糞掃衣(ふんぞうえ)だけが許された持ち物でした。
 のちに中国で壊色(えじき)汚れた茶褐色と翻訳されましたが、その後、ぼろ切れだけでなく、様々な端布を縫い合わせて、僧侶が法要などで着用する現在の袈裟になりました。
 袈裟は「三世諸仏同証の霊服」とも呼ばれ、いわゆる仏教徒の旗印の意味もあります。
 現在大谷派で用いられる袈裟には、輪袈裟、畳袈裟、墨袈裟、青袈裟、五条袈裟、七条袈裟などがあり、それぞれ法要に応じて使い分けています。

法語の味わい
ー法語カレンダー 1月号より

 気持ち新たに
 仏法聴聞のいのちを頂く 

 とんちの一休さんなどと、親しみを込めて呼ばれる一休禅師は「正月(門松)は冥土の旅の一里塚 めでたくもあり めでたくもなし」と詠まれました。
 諸行無常のわが身であることを忘れ、正月だからと浮かれていることを戒められたものです。
 親鸞さまは「無常の身、愚かな身」であるこのわが身こそ、阿弥陀仏の救いのお目当て。必ず浄土に生まれさせんと誓われた南無阿弥陀仏のお念仏を頂く、それこそが真実のめでたさだと教えて下さっています。
 南無阿弥陀仏に出遇うと「正月は浄土の旅の一里塚 めでたくもあり ありがたくもあり」と、詠み変えることが出来るでしょう。
 この身、今生において念仏を頂き、仏法聴聞にいそしむ事こそ、人として生を受けた喜び、とも言えるでしょう。共々におん同朋の歩みを続けましょう。

坊守便り
ー将棋と出産を選ばせないでー
 将棋の女流六冠である福間香奈さんが将棋界の女性の権利を求めて、要望書を日本将棋連盟に提出しました。
「これから女流棋士を目指す女の子たちが、安心して頂点を目指せる将棋界になってほしい」と、女流棋士の妊娠、出産をめぐって、日本将棋連盟が定めた規定の見直しなどを求めました。
 現在の規定では「出産予定日の産前6週目から、産後8週目までの期間タイトル戦の日程と、一部でも重複すれば対局者が変更される。」とあります。
 女流タイトル戦は8つあり、ほぼ毎月日程が組まれていて、子供を産むか、タイトル戦を選ぶかの二者択一を迫られる状況となっています。
 この状況は、生殖に関する権利及び自己決定権を大きく制約し、人権上、極めて重大な問題を含んでいると指摘しています。
 現代では様々な分野で女性が活躍しています。出産という未来へつなぐ役割が、キャリア形成の妨げにならない世界へとなるよう、応援していきたいことです。

一月の行事

15日(木)午前10時半〜 ピラティス

18日(日)正午〜 修正会 同朋の会新年会

25日(日)午後4時〜 創作浪曲「医師 中村哲」
 趙 博・沢村道代
参加費 投げ銭

29日(木)午前10時半〜 ピラティス


二月の行事

5 日(木)午前10時半〜 ピラティス

19日(木)午前10時半〜 ピラティス

21日(土)午後2時〜 祥月講・同朋の会聞法会
      ご講師 西稱寺住職 宮部 渡師  

寸 言
 なにをしたかということより
 いかなるこころをもってしたか
 ということが 常により深い問題

               宮城 




















































































posted by ansenji at 20:57| Comment(0) | 法悦
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