2023年11月14日

2023年11月

 法 悦 11月号 878号

  「生」

ものを取りに部屋に入って

何を取りに来たのか忘れて

戻ることがある

戻る途中で

ハタと思い出すことがあるが

その時はすばらしい


身体が先にこの世に出てしまったのである

その用事が何であったか

いつの日か思い当たる時のある人は幸福である

思い出せぬまま

僕はすごすごあの世へ戻る

         詩人 映画評論家 杉山平一

青色青光
 以前にも少し触れましたが、故、児玉暁洋師が「人間は真実したい事をし、
なりたい者になる為なら、何をしても許されるのだ。」と仰っておられ
ましたが、ひとは誰しも、誰を父に誰を母に、どこそこに生まれようと、
選んで生まれたのではなく、気がついたらここに、男として、あるいは
女として生まれていた。
 まさに生まれ出でたその時から、与えられた縁のままに生を受け、
与えられた縁のままにその生を閉じるしかない存在、にもかかわらず、
間だけは何とか思い通りにしたい、否、思い通りにならないことに
我慢ならないと。 人間の願いは二重底、表面的にはああもしたい、
こうなりたいと迷い悩み続けますが、いのちの底では本当にうなずける
ものに出遇いたい、真実の願いに生きるものとなりたい、「それで良いのか、
満足して生き、満足して死んでいけるのか」とこの身の有り様を問い続け
てくる、志願が流れ続けているのです。
 無量無数のご先祖や先達方が、その志願に自らを問い続け、歩まれた。
それが念仏の歴史ではないでしょうか。

住職日々随想

「どうして人を殺してはいけないんですか?」
一人の青年がそう問いを発したとき、その場にいた大人も他の若者たちも
、誰も応えられずに押し黙ってしまい、その青年の問いにひりつく雰囲気
のまま、話題が変わっていってしまいました。
 これはずいぶん以前になりますが、夜分に放送されていた
『十代しゃべり場』というNHKの若者討論番組での一場面です。
彼の問いそのものも衝撃的でしたが
、それにも増して、誰からもまともな応答がされなかったことに、ショックを
受け深く考えさせられました。
 ウクライナへのロシア、プーチン政権による侵略戦争や、パレスチナ・ガザ
地区のハマスによる奇襲攻撃とイスラエルの報復攻撃など、世界各地における
紛争で多くの血が流され、今も日々いのちが奪われ続けています。
 冒頭の問いを発した青年も「一人ひとりのいのちはかけがえがなく、それは
地球よりも重いのだ」と、幾度となく聞かされ、うなずいてきたはずですし、
誰かを傷つけ命を奪うことは、なんびとたりとも許されないと理解している
はずです。
 しかし世界は全くそうはなっていないじゃないかと、その現実に対する強い
憤りと抗議の意志が、この問いには込められていたと思うのです。
 法蔵菩薩が兆歳永劫のご修行を経て、阿弥陀仏と成られるにあたって
誓われた、四十八願の第一に「無三悪趣(むさんまくしゅ)の願…我が国、
浄土には地獄・餓鬼・畜生なからん」が掲げられています。
 地獄とは、まさに人と人とが傷つけ合い殺し合う世界、餓鬼とは、決して
満足することのない無限の欲望の支配する世界、そして恥じる心を失って、
強いものにこびへつらい、弱き者を虐げる畜生の世界。
 これら三悪趣のない世界が浄土であり、阿弥陀仏のご本願として表現された、
国の違い、民族の違い、それこそ宗教の違いをも超えて、すべての命の底に
流れ続ける一切衆生の本有の願い、まさに願心によって荘厳された世界
なのです。
 本来、「浄土」は西方の彼方にあって、死後赴くべき世界、というよりも、
この迷いしかない娑婆世界に、本来の願いの世界に帰せよと、願心を送り続け、
このわたしの上にはたらき続ける、はたらきそのものであり、この仏の願心を
念ずるところに、我が身の有り様を痛み悲しむまなこを凡夫に与え続ける
ものなのです。
 北陸の篤信のお同行の中には、阿弥陀仏を「はたらき様」と表現される方も
おられます。まさに名詞としてではなく、動詞としての浄土が今も活き活きと、
このわたしの上にもはたらき続けていて下さるのです。

真宗入門

ー 「門徒」ー
 浄土真宗の教えを頂く人の事を「門徒」と言いますが、「檀家」と呼ぶ人
もいます。どんな違いがあるのでしょうか。 
「門徒」とは浄土門の徒輩(ともがら)という意味で共にお念仏の教えに生きる
人々の事をいいます。「檀家」とは、江戸時代に幕府が政策の一環として
行った「寺請制度」(檀家制度)により住民が特定の寺院に所属する事が
義務づけられ寺院は戸籍台帳を作り所属を証明していました。
 その後、明治政府によりこの制度は廃止されましたが、現在でも檀家という
呼び名が使われています。
 「門徒」はもともとは、広く同じ門流に属して信仰を共にする人々を指して
用いられていましたが、本願寺第八代蓮如上人が「御文」などで、門徒という
言葉を多く用いられたことから、浄土真宗を拠りどころとするものの呼び名
となり、現在でも浄土真宗の教えをいただく人々を指す言葉として、
一般的に使われています。

法語の味わい

「生の依りどころを与え

 死の帰するところを与えていくのが

 南無阿弥陀仏」

 金子大栄先生は念仏もうす事において、死の「帰するところをもって、生の
依りどころとするということに、浄土の教えの性格がある」といわれます。
 私達は死を怖れて忌み嫌い、生の充実をもとめます。目の前の利益を
もとめて右往左往する日暮らしに明け暮れ、やがて後悔と不安が残るの
ではないでしょうか。
 仏の教化を受けて帰るべきところがはっきりすれば、今までの生き方は
変わってきます。帰る家がはっきりすると安心して家路につくことが出来る
のですね。
金子先生は「心おきなく死んでいけるところが見つかるのであれば、それが
本当の生の意義」と教えておられます。

坊守便り ー 秋の日帰りバス旅行 ー
「南都六宗 二大本山を訪ねて」 
 同朋会をはじめ安泉寺ご門徒の皆様と、毎年貸し切りバスで古寺巡拝を行い、
たいへんご好評を頂いております。
 コロナ禍でお休みさせて頂いておりましたが、4年ぶりに開催いたします。
大和路・南都六宗の本山、唐招提寺・興福寺へご一緒にお参り致しましょう。
 唐招提寺は律宗の総本山です。当時、危険な船の旅に5回も失敗を繰り返し、
失明しながらも、ようやく6度目に日本にたどり着かれた、鑑真和上の
開かれたお寺です。
 世界遺産にも登録された金堂をはじめ、歴史ある建造物や宝物が多く有り、
平城京の持つおおらかさを感じる事が出来るでしょう。
 また、安泉寺住職の大学時代の友人が、現在管長を勤めておられますので、
是非お訪ねしたい事です。
 興福寺は法相宗の大本山、五重塔をはじめ金堂や北円堂などの建造物、
有名な阿修羅像などがあり、天平文化の面影を偲ぶ事ができます。
 また、ご当地グルメを頂き、ならまちの散策を楽しみましょう。お誘い
合わせの上ぜひご参加下さい。

十一月の行事
5 日(日) 午後1時〜 おみがき・清掃奉仕
12日(日) 報 恩 講 昼2 時 大 逮 夜
            引き続き 御伝鈔拝読
ご講師 泉大津 南溟寺 戸次公正師
16日(木) 午前10時半〜 ピラティス
30日(木) 午前10時半〜 ピラティス

十二月の行事
3 日(日) 秋の一日バスツアー
 「南都六宗 二大本山を訪ねて」
7 日(木) 午前10時半〜 ピラティス
17日(日) 午後2時〜
    年末おみがき・大掃除ご奉仕・年末茶話会
21日(木) 午前10時半〜 ピラティス   
31日(日) 夜11時〜 歳暮勤行
             除夜の鐘

*前住職病気療養中のため、今月号より 坊守が3・4ページのコラムを担当
 いたしております。

*感染予防には十分配慮し各行事を行いますが、感染が 再拡大した場合、
変更もしくは中止する事がございます。 

 
























































































































































































































































 法 悦 11月号 878号

  「生」

ものを取りに部屋に入って

何を取りに来たのか忘れて

戻ることがある

戻る途中で

ハタと思い出すことがあるが

その時はすばらしい


身体が先にこの世に出てしまったのである

その用事が何であったか

いつの日か思い当たる時のある人は幸福である

思い出せぬまま

僕はすごすごあの世へ戻る

         詩人 映画評論家 杉山平一
青色青光
 以前にも少し触れましたが、故、児玉暁洋師が「人間は真実したい事をし、なりたい者になる為なら、何をしても許されるのだ。」と仰っておられましたが、ひとは誰しも、誰を父に誰を母に、どこそこに生まれようと、選んで生まれたのではなく、気がついたらここに、男として、あるいは女として生まれていた。
 まさに生まれ出でたその時から、与えられた縁のままに生を受け、与えられた縁のままにその生を閉じるしかない存在、にもかかわらず、間だけは何とか思い通りにしたい、否、思い通りにならないことに我慢ならないと。 人間の願いは二重底、表面的にはああもしたい、こうなりたいと迷い悩み続けますが、いのちの底では本当にうなずけるものに出遇いたい、真実の願いに生きるものとなりたい、「それで良いのか、満足して生き、満足して死んでいけるのか」とこの身の有り様を問い続けてくる、志願が流れ続けているのです。
 無量無数のご先祖や先達方が、その志願に
自らを問い続け、歩まれた。それが念仏の
歴史ではないでしょうか。
住職日々随想

「どうして人を殺してはいけないんですか?」
一人の青年がそう問いを発したとき、その場にいた大人も他の若者たちも、誰も応えられずに押し黙ってしまい、その青年の問いにひりつく雰囲気のまま、話題が変わっていってしまいました。
 これはずいぶん以前になりますが、夜分に放送されていた『十代しゃべり場』というNHKの若者討論番組での一場面です。彼の問いそのものも衝撃的でしたが、それにも増して、誰からもまともな応答がされなかったことに、ショックを受け、深く考えさせられました。
 ウクライナへのロシア、プーチン政権による侵略戦争や、パレスチナ・ガザ地区のハマスによる奇襲攻撃とイスラエルの報復攻撃など、世界各地における紛争で多くの血が流され、今も日々いのちが奪われ続けています。
 冒頭の問いを発した青年も「一人ひとりのいのちはかけがえがなく、それは地球よりも重いのだ」と、幾度となく聞かされ、うなずいてきたはずですし、誰かを傷つけ命を奪うことは、なんびとたりとも許されないと理解しているはずです。
 しかし世界は全くそうはなっていないじゃないかと、その現実に対する強い憤りと抗議の意志が、この問いには込められていたと思うのです。
 法蔵菩薩が兆歳永劫のご修行を経て、阿弥陀仏と成られるにあたって誓われた、四十八願の第一に「無三悪趣(むさんまくしゅ)の願…我が国、浄土には地獄・餓鬼・畜生なからん」が掲げられています。
 地獄とは、まさに人と人とが傷つけ合い殺し合う世界、餓鬼とは、決して満足することのない無限の欲望の支配する世界、そして恥じる心を失って、強いものにこびへつらい、弱き者を虐げる畜生の世界。
 これら三悪趣のない世界が浄土であり、阿弥陀仏のご本願として表現された、国の違い、民族の違い、それこそ宗教の違いをも超えて、すべての命の底に流れ続ける一切衆生の本有の願い、まさに願心によって荘厳された世界なのです。
 本来、「浄土」は西方の彼方にあって、死後赴くべき世界、というよりも、この迷いしかない娑婆世界に、本来の願いの世界に帰せよと、願心を送り続け、このわたしの上にはたらき続ける、はたらきそのものであり、この仏の願心を念ずるところに、我が身の有り様を痛み悲しむまなこを凡夫に与え続けるものなのです。
 北陸の篤信のお同行の中には、阿弥陀仏を「はたらき様」と表現される方もおられます。まさに名詞
としてではなく、動詞としての浄土が、
今も活き活きと、このわたしの上にも
はたらき続けていて下さるのです。
真宗入門

ー 「門徒」ー
 浄土真宗の教えを頂く人の事を「門徒」と言いますが、「檀家」と呼ぶ人もいます。どんな違いがあるのでしょうか。
 「門徒」とは浄土門の徒輩(ともがら)という意味で共にお念仏の教えに生きる人々の事をいいます。「檀家」とは、江戸時代に幕府が政策の一環として行った「寺請制度」(檀家制度)により住民が特定の寺院に所属する事が義務づけられ、寺院は戸籍台帳を作り所属を証明していました。
 その後、明治政府によりこの制度は廃止されましたが、現在でも檀家という呼び名が使われています。
 「門徒」はもともとは、広く同じ門流に属して信仰を共にする人々を指して用いられていましたが、本願寺第八代蓮如上人が「御文」などで、門徒という言葉を多く用いられたことから、浄土真宗を拠りどころとするものの呼び名となり、現在でも浄土真宗の教えをいただく人々を指す言葉として、一般的に使われています。
法語の味わい

「生の依りどころを与え

 死の帰するところを与えていくのが

 南無阿弥陀仏」

 金子大栄先生は念仏もうす事において、死の「帰するところをもって、生の依りどころとするということに、浄土の教えの性格がある」といわれます。 私達は死を怖れて忌み嫌い、生の充実をもとめます。目の前の利益をもとめて右往左往する日暮らしに明け暮れ、やがて後悔と不安が残るのではないでしょうか。
 仏の教化を受けて帰るべきところがはっきりすれば、今までの生き方は変わってきます。帰る家がはっきりすると安心して家路につくことが出来るのですね。金子先生は「心おきなく死んでいけるところが見つかるのであれば、それが本当の生の意義」と教えておられます。
坊守便り ー 秋の日帰りバス旅行 ー
「南都六宗 二大本山を訪ねて」 
 同朋会をはじめ安泉寺ご門徒の
皆様と、毎年貸し切りバスで古寺
巡拝を行い、たいへんご好評を頂いております。
 コロナ禍でお休みさせて頂いておりましたが、4年ぶりに開催いたします。大和路・南都六宗の本山、唐招提寺・興福寺へご一緒にお参り致しましょう。
 唐招提寺は律宗の総本山です。当時、危険な船の旅に5回も失敗を繰り返し、失明しながらも、ようやく6度目に日本にたどり着かれた、鑑真和上の開かれてたお寺です。
 世界遺産にも登録された金堂をはじめ、歴史ある建造物や宝物が多く有り、平城京の持つおおらかさを感じる事が出来るでしょう。
 また、安泉寺住職の大学時代の友人が、現在管長を勤めておられますので、是非お訪ねしたい事です。
 興福寺は法相宗の大本山、五重塔をはじめ金堂や北円堂などの建造物、有名な阿修羅像などがあり、天平文化の面影を偲ぶ事ができます。
 また、ご当地グルメを頂き、ならまちの散策を楽しみましょう。お誘い合わせの上ぜひご参加下さい。
十一月の行事
5 日(日) 午後1時〜 おみがき・清掃奉仕
12日(日) 報 恩 講 昼2 時 大 逮 夜
            引き続き 御伝鈔拝読
ご講師 泉大津 南溟寺 戸次公正師
16日(木) 午前10時半〜 ピラティス
30日(木) 午前10時半〜 ピラティス

十二月の行事
3 日(日) 秋の一日バスツアー
 「南都六宗 二大本山を訪ねて」
7 日(木) 午前10時半〜 ピラティス
17日(日) 午後2時〜
    年末おみがき・大掃除ご奉仕・年末茶話会
21日(木) 午前10時半〜 ピラティス   
31日(日) 夜11時〜 歳暮勤行
             除夜の鐘

*前住職病気療養中のため、今月号より
 坊守が3・4ページのコラムを担当
 いたしております。

*感染予防には十分配慮し各行事を行いますが、感染が
 再拡大した場合、変更もしくは中止する事がございます。 
 3ページと4ページの間の言葉


生まれ出でくるいのちの営みもめでたいが

死んでいくいのちの営みも尊い   宮城 

 
























































































































































































































































posted by ansenji at 14:05| Comment(0) | なんでも質問箱

2023年06月27日

2023年7月 2023年7月

 法 悦 7月号 874号

  
 染香人(せんこうにん)の

 その身には
   
 香気(こうげ)あるが

 ごとくなり

 これをすなわち

 なづけてぞ

 香光荘厳(こうこうしょうごん)と

 もうすなる

   浄土和讃
                  
青色青光
 世界的な気候変動に伴い、積乱雲が線状に次々に発生する、災害を
もたらしかねないような集中豪雨域を「線状降水帯」と言いますが、
今まで聞いたこともなかった気象用語を耳にすることが増えました。
 それら耳新しい用語の中に暑熱馴化(しょねつじゅんか)があります。
暑い気候に長時間さらされることにより、身体が徐々に暑さに適応して
いくことを指します。
 梅雨時のじめじめとした蒸し暑さは不快なものですが、この不快な
時期に、汗をかき、しっかりと汗腺を開いておかないと、真夏を迎えても
適切に体温調節ができず、熱中症になる危険が高まるらしく、この鬱陶しい
季節もなければならないものと、改めて知らされました。
 その昔、平安貴族の人たちには、気に入った香を衣服に焚きしめ、ほのかに
その人ならではの薫を漂わせるという、薫修(薫習)という雅びな風習が
あったそうです。
 しかし、だからといって、いかに気に入った香であったとしても、一気に
薫り付けをしようとすると、かえって焦げ臭くなってしまうそうで、何事につけ
日々、徐々に徐々に、たゆまず続けていくことの大切さを知らされます。 
 同じ事が真宗門徒の日暮らしにも言えます。日々お内仏に真向かい、心静かに
お念仏を申す生活の中で、少しずつ少しずつ、仏祖の願いがしみこんで、
知恩報徳の思いが芽生え、やがてはその人のお人柄とまでなって、あらわに
なってくると言われるのです。

住職日々随想

政府は行政サービスの一層の効率化と、利便性の向上を図るという名目のもと、
マイナンバーカード普及に、躍起になって取り組んでいます。
 しかしこの間、この事業を巡って様々な不具合が噴出し、保険証や銀行口座、
そのほか運転免許証など、様々な個人情報を紐付けし、政府が一元管理すると
いう方向で進められていますが、残念ながら、そのことに対する不安がますます
高まっています。
 いつ何を購入したか、どのような医療を受けたか、どういうところに行った
か等々、紐付けされる情報が多ければ多いほど、確かに行政サービスなどを
受けるとき、利便性が高まることもあるでしょうが、場合によっては誰にも
知られたくないような個人情報も、政府に差し出すことになってしまいます。
 政府や行政に対する絶対の信頼があるというならば、それも納得できること
かもしれません。しかし、国民の側からは、どこまでの情報が把握されている
のか見えません。
 一方的に見られている、見られているのではという憶測は、見られる側の
行動に自然、萎縮効果を生み出します。
 その典型的な例が、菅義偉元首相の学術会議委員任命拒否の件です。
今に至るまでも6名の委員拒否の理由が明らかにされないため、政権批判とも
捉えられない発信したからではないか等々、様々な憶測を呼び、学術会議委員や
次期委員候補者達に、明らかな萎縮効果をもたらしました。
 情報の一方通行がもたらす、こういった弊害を見るにつけ、実際見られて
いなくても見られているのではないかという想いが人々の行動を縛り、
為政者に従順な物言わぬ多数を生み出していくのではないか、と危惧せざる
を得ません。
行政サービスの利便性向上云々よりも、政権の本来の意図がそこにこそある
のでは、と想われてなりません。
 未来の子供達のためにも、一部の権威主義的な国のような、まともに物言えぬ
国にならないよう、注意が必要です。 阿弥陀如来が法蔵菩薩として、兆載永功
のご修行をなさるとき、師である「世自在王仏」のみもとにおいて、四十八の
無上殊勝の誓願を発起されたとあります。
 「世において自在なる王仏、自らに存在根拠を持つ仏」ここに表現されている
自在とは、あらゆる制約や束縛から解放され、自由に行動し選択する意欲に
他なりません。
 以前、ご本山の宗祖七百五十回御遠忌のテーマが「バラバラで一緒、違いを
認める世界の発見」とありましたが、自在な状態を求めるためには、互いの
違いを認め合える社会でなければならないのです。
 そこに於いてこそ、異なる意見や経験、対話や相互理解の場が重要な役割を
果たし、個々人は自身のアイディアや才能を自由に発揮し、他者との交流を
通じて人間的成長や、豊かな創造性を獲得していくことができるのです。
 まさに浄土の光に照らされる世界とは、自由な発想や行動をどこまでも
受け止める、真に豊かな世界なのです。

坊守便り

ー 第四十六回 大阪教区同朋大会 ー^  
 コロナ禍により開催できなかった大阪教区の同朋大会が三年ぶりに行われ
ました。
 今回各寺院からの参加は一名程度という制限があり、従来とまったく違う
募集に戸惑いましたが、大会スタッフも智慧をしぼっておられての事と推察
いたしました。
 大会当日が近づくにつれ若干の追加募集があり、同朋会の現役員さんの方々に
お声がけし、ご参加いただきました。
同朋の声の発表をされた教区内のご門徒さんと、法話のご講師の先生は大会
中止となる三年前に、お願いしていた方々ですが、こころよくお引き受け頂いた
とのことでした。
ご輪番からは「ようやくマスクを外して、顔と顔を合わせての生活が始まって
いきます。」と喜び溢れるご挨拶がありました。
ご講師の伊藤元先生は、はるばる九州からお越しになりました。九〇歳近い
ご年齢ですが、今もかくしゃくとしておられ、全国から出講要請の引きも切ら
ない方です。
大会テーマは「私たちは何を求めて生きているのだろうか?」です。
私達にとって本当に豊かに生きるという事は物に恵まれた生活ではなく、
生きがいを持ち、生きる意欲の持てる、本当に生きたと言える人生だと、
様々な切り口からお話をいただきました。
 まさに今、コロナ禍を越えての新しい毎日の始まりです。

七月の行事

1 日(土) 午後2時〜 祥月講・同朋の会聞法会
 ご法話 武庫川念仏寺住職 土井紀明師
6 日(木) 午前10時半〜 ピラティス
20日(木) 午前10時半〜 ピラティス

八月の行事

3 日(木) 午前10時半〜 ピラティス
6 日(日) 午後1時〜 おみがき・清掃ご奉仕

 盂蘭盆会法要
14日(月)午後1時・午後3時・夕方7時半
15日(火)午前10時・午後1時 (計五座)
    *詳細につきましては改めてご連絡申し上げます。
24日(木) 午前10時半〜 ピラティス
*お盆明け16日より20日まで、当寺よりの月参りは
 お休みとさせていただきます。

*感染予防には十分配慮し各行事を行いますが、感染が再拡大した場合、
 変更もしくは中止する場合事があります。ご承知おきくださいませ。

 


























































































































































































































































posted by ansenji at 01:18| Comment(0) | なんでも質問箱

2023年04月28日

2023年5月

 法 悦 5月号 872号

 まず凡夫は、ことにおいて、つたなく、おろかなり。(中略)たとい未来の
生処を弥陀の報土とおもいさだめ、ともに浄土の再会をうたがいなしと期す
とも、おくれさきだつ一旦のかなしみ、まどえる凡夫として、なんぞこれ
なからん。(中略)おろかにつたなげにして、なげきかなしまんこと、他力
往生の機に相応たるべし。
 人間の八苦のなかに、さきにいうところの愛別離苦、これもっとも切なり。
まず生死界の、すみはつべからざることわりをのべて、つぎに安養界の常住
なるありさまをときて、うれえなげくばかりにて、うれえなげかぬ浄土を
ねがわずんば、未来もまた、かかる悲歎にあうべし。
つぎにかかるやからには、かなしみにかなしみをそうるようには、ゆめゆめ
とぶらうべからず。もししからば、とぶらいたるにはあらで、いよいよ
わびしめたるにてあるべし。酒はこれ、忘憂の名あり。これをすすめて、
わらうほどになぐさめて、さるべし。さてこそとぶらいたるにてあれと、
おおせありき。しるべし。

青色青光
毎年二月十五日には、大阪市仏教会の主催で涅槃会(お釈迦様ご入滅日
の法要)が厳修されます。
 殊に四天王寺本坊の五智光院で営まれる折には、本堂内陣に巨大な
涅槃図をおまつりし、各宗派年交代回り持ちで、それぞれの宗派の勤行式
で仏コを讃嘆致します。
 差し支えのない限り毎年お参りさせていただいておりますが、間近で
巨大な涅槃図を拝ませていただきながら、いつも思い起こされますのが、
上記の覚如上人著の「口伝鈔」の親鸞様のお言葉です。
 頭北面西右脇に横になっておられるお釈迦様の周りには、多くの仏弟子方
のみならず、生母の摩耶夫人が天上から駆けつけておられるお姿や、
様々な動物なども描かれています。
が、いつも注目させられるものが、お釈迦様の入涅槃を嘆き悲しみ失神した
アナン尊者、その彼に水を掛けて蘇生させようとする兄弟子の姿です。
「お前は一体何を聞いてきたんだ」としかりつけている、その声が聞こえて
くるように思われるのです。
 この時点では、いまだ悟っておられないアナン尊者。
その嘆きは私たち凡夫とも等しく思われてなりません。「他力往生の機に
相応」「酒はこれ、忘憂の名あり…」と、親鸞様の温かいまなざしを感じず
にはいられません。

住職日々随想
 
 「その質問には答えるべきではない」と、お釈迦様が肯定も否定も
なさらなかった問いを「無記」と言います。
 すなわち、世間は永遠に存在するのかしないのか?またその限りは
あるのか無いのか?如来は死後も存在するのかしないのか?
命とこの身は同じなのか異なるか?などといった質問で、知的関心から
問う事を、戯論(けろん)と称し、その問いに応えることもまた戯論である
と退けられ、仏教者の取るべき態度をお示しになられました。
 その事を「毒矢のお譬え」と言われている話でお説きになっておられます。
 曰く、ある商人の一行が山道を進んでいると、どこからともなく一本の
毒矢が放たれ、主人に突き刺さりました。供の者が急ぎ引き抜こうと
しましたが、「ちょっと待て、この矢はだれが射たのか。男か、女か。
その者の名前は。何のために矢を射たのか。矢に塗られた毒はどんな毒か。
それらが分かるまで、この矢を抜いてはならん」と言い張りました。
そうこうするうち、全身に毒が回り商人は死んでしまったと、「無常は迅速、
まさに今も老いや病、死の苦しみがわが身の現実としてあるではないか。
私はこの苦悩の根本原因と、その解決の道を説いている、急ぎ問うべき人生の
一大事とは何なのか、よくよく知らねばならない」と。では、お釈迦様は
こういった問いに、全く応えられなかったのかと言えば、そうではありません。
 お釈迦様の在家のお弟子に、マハー・ナーマンという方がおられました。
病に苦しんでおられるこの方を見舞われたお釈迦様に、「このとおり年老い、
治る見込みの無い病を得、この先いのち終えて一体どうなるのか、不安で
なりません。」と、苦しい胸の内を打ち明けられたとき、「マハー・ナーマンよ、
そなたは私の教えをよく守り、正しい生活を送ってきた。
それ故マハー・ナーマンよ、死してのち、そなたのその身は滅ぶであろう
けれども、そなたのその心は、必ずや勝れたところに生まれるであろう」と。
 知的関心から発せられたような問いではなく、身の苦悩から発せられた、
実存的な問いに対しては、沈黙されるのでなく、むしろその慈悲と救済の
お心をもって、お応えになられたと戴くことが出来ないでしょうか。
 それはまた、阿弥陀様が衆生を一子の如く憐愍される、ご本願として、
今もこの私の身に至り届いています。
まさに念仏は「我をたのめ必ず救わん」という親の呼び声であり、また「応」
と応える子の返事なのです。

坊守便り
ー花まつりー
 四月九日に当寺本堂にて、花まつりの法要をお勤めさせて頂きました。
別名「灌仏会」とも言われる仏教行事です。
 花御堂の中央の誕生仏に甘茶をそそぎ、子供の健やかな成長を念じます。
 南御堂のゆるキャラ、ブットン君にも来て頂き、ピアノに合わせて
三帰依を唱和し、お勤めしました。
親子合わせて三十名ほどのご参加があり、一人ずつ順番に、花御堂に
手を合わせて頂きました。
 境内では綿菓子作り体験と、スーパーボールすくいなどをして楽しみ、
ブットン君と記念写真をとりました。
 解散後、一度帰宅した四人の子供さんが感謝状を持ってこられ、今日一日
お寺で過ごして、とても楽しかったと書いて下さっていました。嬉しい事です。
 第二部は若者のコンサートです。最初に装束を着け、若院と友人により
正式なお勤めをいたしました。一般の若者たちが本格的な法要を体験する
機会は、あまり無いことかもしれません。今後も子供たちや若者にも
お伝えし、お寺に親しみを持って頂きたい事です。若いお父さんお母さん
子供たち、若者と一緒に楽しい花まつりでした。

五月の行事
18日(木)午前10時半〜 ピラティス

20日(土)午後2時〜琵琶演奏を聴く集い
 「嫁おどし肉付きの面」その他
              演者 野田孝子さん
25日(月)午前10時半〜 ピラティス

六月の行事
1 日(木)午前10時半〜 ピラティス

15日(木)午前10時半〜 ピラティス

17日(土)午後2時〜 祥月講・同朋の会聞法会
      ご法話 専光寺 前住職 島洸陽師

*感染予防には十分配慮し、各行事を行いますが、感染が
さらに拡大した場合、変更もしくは中止する場合がございます。



























































































































































































































































posted by ansenji at 21:13| Comment(0) | なんでも質問箱