2018年05月31日

六月 住職日々随想


悲しい時、腹が減っていると、

余計に悲しくなる。辛くなる。

そんな時はメシを食え。

もし死にたいくらい悲しいことがあったら、

とりあえずメシを食え。

そして一食食ったら、

その一食分だけ生きてみろ。

それでまた腹が減ったら、

一食食べて、その一食分生きるんだ。

そうやってなんとかでもしのいで

命をつないでいくんだよ。


   中学生作家 鈴木るりか著
         「さよなら田中さん 」より

<青色青光>

 藤井聡太さんをはじめ、ローティーンの人々の活躍には驚かされる事がありますが、文学の世界にも驚異の新人が現れました。
 上記の文章は中学生作家、鈴木るりかさんが、十四歳の誕生日に出版した連作短編小説、「さよなら田中さん」からのものです。
 貧しいながらもたくましく生きる、土木作業員のお母さんと、小学六年生の女の子、田中花実の母子家庭の日常を、楽しく、時にほろりとさせられるエピソードとともに描いた傑作ですが、主人公、花実の友人の少年が、お受験に失敗して、母親の心ない言葉に傷つけられ、家を飛び出し町をさまよった末、川に飛び込もうとしているのを見つけた花実の母親が、空腹の少年をアパートに連れて帰り、ご飯を食べさせてやりながら語った言葉で、生きるための力強い励ましです。
 断言いたしますが、人としてこの世に生まれて、死にたい人など一人もありません。ただ、生きることが苦しくつらい、困難だ、死ぬしかないのではないかと、思い詰めるひとはいます。
 だからこそ生きることの支援が必要なのです。今、支援の手を差しのべる私が、いつ支援をしてもらわなければならないようになるか分からないのですから。
 苦悩の衆生を捨てじと、十劫の昔から寄り添ってくださっている阿弥陀仏の誓いのまことを、お念仏と共に喜ばせていただきたいものです。 

<住職日々随想>
 かつて同朋会運動を支え、活躍された仲野良俊先生が、インドの仏跡を訪ねられた折、ガイドの青年に「あなたの人生の目標は何ですか?」と尋ねると、すかさず、「ビモクシャ!(解脱だ)」と答えが返ってきて大変驚いたと。
 それこそ日本の若者に限らず老人に至るまで、この青年の様に、人生の目標を見定めている人が、どれだけいる事かと、深く考えさせられたとお話しされました。
 「終活」と言う言葉が、近年広く用いられるようになりました。物事を始めるときは、弾みであったり、計画を立て準備を整えてであったり、形は様々ではありますが、何事につけ幕引きという事は難しいものかと思います。
ことに自身の人生の最後について考える「終活」というような事は、自らの事だけに却ってイメージしづらく、なおかつ、それまで見ないようにしてきたことにも、目を向けなければならないので、大変心を悩ませる事になると思います。
 仏教の故郷であるインドでは、先にご紹介した青年に限らず、古来より、人の一生を「学生期(がくしょうき)・家住期(かじゅうき)・林住期(りんじゅうき)・遊行期(ゆぎょうき)」の四つの時期に分け、それぞれの時期の過ごし方に明確な方向性をもっておられます。
まず「学生期」というのは、まさにさまざまに学問し、生きる上での知恵と知識を身に付ける時期と捉えています。
  次に、「家住期」というのは、働き家庭を持ち子供を育て、人としての責任を果たす時期と捉えます。
 次に、「林住期」というのは、世俗の様々な雑事を離れ、隠生し宗教的生活をする事を目指す時期と捉えます。
 最後に、「遊行期」というのは、生涯の終わりに臨んで、聖なる川ガンジスを目指して旅に出、たとえ、たどり着けなくて途中、野垂れ死ぬような事があったとしても、その遺灰をガンジスの支流にでも流してもらえれば、来世の幸福が約束される、というものです。
 日本は今、かつて人類が経験したことがないような超高齢社会を迎えようとしています。
 そのような中にあって、現役を退いた後の過ごし方、まさに林住期を如何に生きるのか、そして人生の終わりを、如何に迎えるのかという事は、誰にとっても切実な問題と言わねばなりません。もちろん、そのまま当てはめる事は出来ませんが、インドのこのような思想に、学ぶべきものがあるのではと思われるのです。
 かつて写真家、藤原新也氏の写真集「メメント・モリ(死を想え)」の中の、ガンジス川のほとりで犬に食べられる人間の姿を捉えた一枚の『人間は犬に食われるほど自由だ』のキャンプションが思い出され、野垂れ死ぬことをも、魂の解放と受け入れている彼の人々と、狭い視野で「終活」を語る我々と、彼我の落差を思わずにはおれません。

六月の行事
7 日(木)午前10時半〜 ピラティス

8 日(金)午後2時〜   仏教コーラスの会

16日(土)午後4時〜祥月講・同朋の会聞法会 
  ご法話  光照寺住職  墨林 浩相師
24日(日)午前10時〜 女性のつどい
      「朗読とお話し・お楽しみ懇親会」
    大谷大学幼児教育科講師 蓮岡 修先生

28日(木)午後2時〜  仏教民謡踊りの会 

29日(金)午後2時〜  仏教コーラスの会
七月の行事
5 日(木)午前10時半〜 ピラティス

10日(火)午後2時〜 門徒女性聞法のつどい  浄土和讃 31 
14日(土)午後4時〜 祥月講同朋の会聞法会
ご法話 伊勢道淨寺前住職 酒井正夫師

19日(木)午後2時〜 仏教民謡踊りの会

20日(金)午後2時〜 仏教コーラスの会

22日(日)午後2時〜 着付けクラブ
                ゆかた講習会
*どなた様もお気軽に、本堂内全てイス席・冷房完備です。
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posted by ansenji at 11:43| Comment(0) | 住職日々随想

2018年05月01日

5月住職日々随想

 四月に大阪市仏教会の社会福祉の担当の方より、東日本大震災の被災地から、お坊さんに来てもらって話を聞いてほしい、との依頼が来ているのですが、ご一緒に行かれませんか、とお声掛け頂きました。
 何か私でお役に立てる事があるならば、ということで予定はしていたのですが、諸般の事情で、残念ながら行けなくなってしまいました。
 考えてみますと、あの震災から七年が経ってようやく、と言って良いのか、まだまだ七年では足りないのか、そこはよくわからないのですが、被災地のご遺族の方々や、様々な被害に遭われた方々が、その辛い胸の内を誰かに聞いて欲しい、そうして自らの物語りとして、語らずには前に進めない、そういう思いを持たれたからこその、ご依頼であったと思われます。
 実際、言葉にしないことには、悲惨な体験を現実のこととして受け止め切れない、という事が確かにあります。にもかかわらず、人は悲しみ苦しみが深ければ深いほど、一番言いたいことは、なかなか言葉にはできないものなのです。
だからこそ、人は詩を書いたり、歌を詠んだりするのではとも思われるのですが、多くの哲学者や、こころのケアをされる医療現場の方々も、異口同音に、自身の人生を物語ることが、その後のその人の歩みにとって、決定的に重要であることを述べておられます。
物語り?と、疑問に思われる方もあるかもしれません。しかし、あらゆる悲しみは、それを物語りにするか、それについて物語ることで、耐えられるものになる、という死生学(悲嘆ケアや医療倫理について研究する学問)の考察もあります。
 そしてまた、物語ることで、自分自身のアイデンティティと亡くなった方、無くした物との関係性を再構築して、深い悲しみを、人生にとって、かけがえのない大切な思い出、むしろ支えと受け止めていける、ということもあるのです。
 仏説観無量壽経の王舎城の悲劇において、夫である王を我が子に殺され、自身も殺されかけた王妃イダイケが、幽閉されていた王宮に出現されたお釈迦様に向かって、宝冠瓔珞を引きちぎり、地に身を投げ出して号泣し「私は何故かかる悪子を産んでしまったのか、何故お釈迦様は、我が子アジャセをそそのかしたダイバと眷属なのですか?」と愚痴の限りをはき出した後、この苦しみに満ちた娑婆世界を離れて、安養の浄土を願ったように、こぼれる愚痴は、受け止めてもらう相手無くしては、愚痴を愚痴とも気付ないし、次の一歩も踏み出し得ない、ということが如実に知られますし、誰かの悲しみに、耳を傾けることは、相手にとっても自身にとっても、大事な事と知られるのです。
 今、誰かをお支えすることが出来るかもしれない私が、又いつか、誰かに支えて頂かなければならない時が、来るかもしれないのです。

五月の行事

14日(月)午前10時半〜 ピラティス

18日(金)午後2時〜 仏教コーラスの会

24日(木)午後2時〜 仏教民謡踊りの会

26日(土)午前9時〜 大阪教区同朋大会参加

29日(火)午後2時〜 門徒女性聞法の集い
               浄土和讃 30
六月の行事

7 日(木)午前10時半〜 ピラティス

8 日(金)午後2時〜 仏教コーラスの会

16日(土)午後4時〜 祥月講同朋の会聞法会
      ご法話  光照寺住職 墨林 浩師

28日(木)午後2時〜 仏教民謡踊りの会

*安泉寺女性部総会・懇親会の詳細は未定です。
*本堂内すべて椅子席、冷暖房完備。
 どなた様もお気軽に。
*六月の門徒女性聞法のつどいは
 お休みです。
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2018年03月26日

4月住職日々随想


 もう二〇年以上前のことになります。私がご本山の全国児童夏の集いのスタッフをしていたときの話ですが、当時私たちスタッフのリーダーをしておられた先輩から聞かされた話に、驚きと戸惑いを禁じ得ませんでした。
 それは、その先輩のお友達の方の奥さんが、出産に臨んで母子ともに大変危険な状態になられたそうです。その時、主治医の先生から、お母さんか赤ちゃんか、どちらかを諦めてもらわないといけないかもしれません、と言われた時に、その男性がすかさず「どうか子どもだけでも助けてください」と言われたそうです。
 それを聞いた私たち若いスタッフは、なんてひどい夫なのだと思ったのですが、先輩は「当然でしょう」とおっしゃいました。釈然としない私たちに「親なのだから当然です」と重ねておっしゃいました。
 果たしてどうなのか、未だすっきりとは解決のつかない問題ですし、そういった局面に出会わないことを祈るばかりですが、実際子を持つ親とならせて頂きますと、自らの命に代えても子供を守りたい、という願いも当然のことと気付かされます。
一昨年の津久井やまゆり園での、障がい者大量殺傷事件の折にも、深く考えさせられたのですが、最近になってまた、浮上してきた人権問題があります。
 それは、旧優生保護法に基づいて、障がい者やさまざまな疾病を抱える方々に、本人の意思を無視して、不妊手術が強制的に行われたという問題で、被害にあわれた方々が、子どもを産めない、無念な苦しい胸の内を、訴訟を起こすという形で、ようやく語られるようになったことです。
 他方で近年、出生前診断が広く行われるようになり、ますます命の選別が広がってまいりました。まさに、優生思想は過去の話ではなく、私たちの身に備わる罪業と言っても過言ではありません。
「全て命は尊いものなのだ」と誰もが思い、口にも致しますが、事実として本当に尊び、また尊ばれているのでしょうか?
かつて様々な人権問題に取り組んでこられた、九州大谷短期大学の園田久子先生は「人はいじめもするし、差別もするし、殺しもするよ」と喝破されました。
 深く罪業の身を顧みることなく、自身善人として振る舞うことの欺瞞を思い知らされることです。
その罪業の我が身を明らかにするものは、如来のお知恵を賜わること以外ありません。
 親鸞聖人は教行信証に、源信僧都の「平等にして一子のごとし。かるがゆえに、我、極大慈悲母を帰命し礼したてまつる。」を引用されて、一切衆生を皆ひとり子の如くに見そなわはす阿弥陀如来に帰命し礼すべき事の尊さを述べておられます。
深く畏れを持って、心したいことです。

四月の行事

5 日(木)午前10時半〜 ピラティス

12日(木)午後2時〜 仏教民謡踊りの会

13日(金)午後2時〜 仏教コーラスの会

21日(土)午後2時〜 祥月講同朋の会聞法会
ご法話 専光寺 島洸陽師

24日(火)午後2時〜 門徒女性聞法の集い
               浄土和讃29

12日(木)午後2時〜 仏教民謡踊りの会

五月の行事
14日(月)午前10時半〜 ピラティス

18日(金)午後2時〜 仏教コーラスの会

19日(土)午前中   桜祭り参加

22日(火)午後2時〜 門徒女性聞法の集い
               浄土和讃 29
24日(木)午後2時〜 仏教民謡踊りの会

26日(土)午前9時〜 大阪教区同朋大会参加

*本堂内すべて椅子席、どなた様もお気軽に。
posted by ansenji at 18:24| Comment(0) | 住職日々随想