2021年06月05日

2021年6月

 法悦 6月号 849号
 
 世人、薄俗にして
 共に不急の事を諍う。
 この劇悪極苦の中において
 身の営務を勤めて、もって自ら給済す。
 尊もなく卑もなし。
 貧もなく富もなし。
 少長男女共に銭財(せんざい)を憂う。
 有無同然なり。憂思適(まさ)に等し。
 屏営愁苦して、念いを累ね慮りを積みて、
 心のために走(は)せ使いて、
 安き時あることなし。
 田あれば田を憂い
 宅あれば宅を憂う。
 田なければ
 また憂えて田あらんと欲い
 宅なければ
 また憂えて宅あらんと欲う。
    仏説無量寿経 下巻

青色青光
 新型コロナウイルスの感染拡大を受け、
多くの都道府県での緊急事態宣言が再発され、
不要不急の外出は控えるよう呼びかけられています。
不要不急とは、急ぐべき事とは、何でしょう?
 お釈迦様は私たち凡夫の有り様を、目先の生活に汲々とし、
有れば有ったで、無ければ無いで「共に不急の事」を諍って、
真に急ぎ求めねばならぬものを求めず、むさぼり争い続ける
「安き時」あることのない生活だ、と明らかにしておられます。
 災害の絶え間のない日本、命の危機は常に隣り合わせにある
ことが、繰り返し露わになり、たびたび思い知らされますが、
私たち凡夫はすぐにその事実に目を背け、日頃の生活の中に忘却
していきます。
 明治の先覚、清沢満之師は弟子の「先生、死ぬ気になれば
何でも出来るもんですね。」の言葉に、即座に「死ぬ気にならずして
何が出来ますか。」と答えられたということです。
 いのちの問題が真にわが身の事実となったとき、
初めて、握りしめていたものを棄てきって、いのちいっぱい、
生ききる事が出来ると知らされるのです。

 住職日々随想  ー緊急事態宣言と緊急事態条項ー
 なかなか収束の見通しの立たない
このコロナ禍の中、国会において
憲法改正の手続きの一環として、いわゆる国民投票法(日本国憲法の
改正手続に関する法律)改正案が、連休明けに採決されました。
 こういう大事な法案がどさくさに紛れて、決められる事に不安を
覚えずにはおれません。
 緊急事態宣言が再発され、様々な制限が私たちの生活に加えられて
いますが、オリンピックパラリンピック開催にこだわるあまり、
医療体制の立て直しや、ワクチンの確保と接種の迅速化など、
本当に急ぐべきことが後手後手に回ってしまっている現状を、
憲法に「緊急事態条項」が無い不備のせいだと、意図的に問題を
すり替える意見も見られました。
 ずいぶん以前、ご本山で毎年夏休みに行われている「全国児童
夏の集い」という事業に、スタッフとして二十年程関わっていました。
 或る年、子供たちがもうすぐ全国から数百名やってくる、その
直前まで、思うように準備が進まず、スタッフの誰もがイライラし、
中には口論しだすものまで出てくる始末。
 そんな時、リーダーの方がすっくと立ち上がって「皆さん
時間がありません、時間がありませんから…ゆっくりいたしましょう!」
と獅子吼され、殺気立っていた空気が一瞬にして解け、誰もが我を取り
戻しました。
 その後、作業は速やかに進み、子供たちの受け入れ準備を間に合わせる
事が出来ました。
 本来、緊急を要する事態であればあるほど、拙速に進める事は、
厳に戒めなければなりません。殊に「緊急事態条項」には、立法権の
行政府への委任という、戦前の治安維持法やナチスの全権委任法にも通じる
ような、独裁を生みだす危険性が色濃く孕まれています。
 蓮如上人のお言葉に、仏法こそは後生の一大事、「仏法には明日と申す事、
あるまじく候う。仏法の事はいそげ、いそげ」と、それは誰もが生死無常の
世を生きる中、真に急がなければならないものは何なのか、まさにその事を
明らかに示して下さっているのです。

坊守便り ー安泉寺同朋会ー
 安泉寺には同朋の会がござい
ます。今から約六〇年前、当時の宗務総長であった訓覇信雄先生
が親鸞聖人の、み教を確かめ直し「いのち」の大切さと、真宗門徒が
共に御同朋・御同行と睦み合う同朋社会の実現を願い、各末寺に同朋の会
を結成することを提唱されました。
 この要請を勝縁として、宗祖親鸞聖人七〇〇回御遠忌を機に、当寺に
「安泉寺同朋の会」として正式に誕生し、同時に同朋の会会員をはじめと
するご門徒の皆様と共々に、親鸞聖人七〇〇回御遠忌を厳修致しました。
 当時の記録写真を見ますと、山門前に受け付けを設け、背広姿で並んで
座る役員の方々、正装の上から割烹着を着けて立ち働く女性部の皆さんの
姿があり、ボーイスカウト・ガールスカウトの子供達も参加していました。
 それ以降、安泉寺同朋の会を中心として、毎月の定例聞法会、春・秋の
彼岸会永代経盂蘭盆会、報恩講等を協力して勤めています。
 また、新年会・バス旅行などでは共に楽しく親睦を深めています。
時は流れ、世代交代しながらも、変わらぬ皆様のご協力に感謝の思いを
深めております。 

*同朋の会はこの度、役員交代致しました。新役員は会長に三木幸男様、
副会長に稲垣信夫様、会計に貝増克之様、会計監査に竹中公彦様・
大橋了巳様です。どうぞ宜しくお願致します。又、梅谷晴男様をはじめ
、旧役員の皆様、ご尽力誠に有り難うございました。

六月の行事
24日(木)午前10時半〜ピラティス
      午後2時〜仏教民謡踊りの会
七月の行事
10日(土)午後2時〜祥月講・同朋の会
15日(木)午前10時半〜ピラティス
29日(木)午前10時半〜ピラティス
      午後2時〜仏教民謡踊りの会
*6月の同朋の会は中止致します。7月につきましては改めてご案内致します。
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2021年04月27日

2021年5月

法 悦 5月号 848号

 阿弥陀仏の御名をきき

 歓喜讃仰せしむれば

 功徳の宝を具足して

 一念大利無上なり


 たとひ大千世界に

 みてらん火をもすぎゆきて

 仏の御名を聞く人は

 ながく不退にかなふなり

         讃阿弥陀仏偈和讃

青色青光

ー阿弥陀仏は名前で救う仏様ー
 お母さんの腕に抱かれてスヤスヤと眠る赤ちゃんが、突然のカミナリに驚き火がついたように泣き出した時、「よしよしお母ちゃんやで、お母ちゃんここに居てるで」と、「お母ちゃんやで」の呼びかけに赤ちゃんは安心いたします。
 同じように不安と苦悩を抱えた私たち衆生に阿弥陀さまは、「我は阿弥陀である、どうか我が名、南無阿弥陀仏と称えておくれ。たとえ一声の念仏であっても、称えるものを必ず浄土に生ぜしめ、仏の悟りを得させずにはおきません。」と呼びかけ続けておられるのです。
 まさに阿弥陀仏は名をもって救い給う仏様、私たちが願うに先立って、南無と頂くものには自ずから安らぎと、自らの業を担っていく勇気と知恵を与えて下さるのです。

住職日々随想
 ずいぶん以前になりますが、東本願寺で毎年夏休みに行われて
いる「全国児童夏の集い」のスタッフとして、全国からやってくる子供たちの名簿を整理している時、一人ひとりの子供たちの名前には、それぞれの親御さん方の深い願いがこもっているんだなぁと感動を覚え、名前の持つ意味について深く考えさせられた事がありました。
 誰もがよくご存知の、宮崎駿監督の長編アニメーション映画「千と千尋の神隠し」の、主題として扱われているものも「名前」です。
 主人公の少女「千尋」がその名前を奪われることによって自身の記憶をなくし、魔法使いのおばあさんに新たに「千」と言う名前を与えられ、操られるようになってしまいますが、様々な出会いと冒険を経て名前を思い出し、自らを取り戻していくというお話でした。
 古代中国では人の名前を呼ぶ時、実名、諱(いみな)を敬って避ける風習があり、ことに漢字文化圏では、諱で呼びかけることは親や主君などのみに許され、それ以外の人間が実名で呼びかけることは極めて
無礼であると考えられました。
 また、本名はその人物の霊的な人格と強く結びついたものであり、
その名を口にするとその霊的人格を支配することができると考えられ、そこから字(あざな)が用いられるようになったそうです。
 たとえば白居易の姓は白、諱は居易、字は楽天で、本名の白居易とも、白楽天とも称されます。また、諸葛は姓、諱は孔明ですが、字も併記して諸葛亮孔明と称される場合もあります。
 実に、名は体を表すと申しますが、まさにそのものを表すとともに、備わっている働きも示しています。
 親鸞聖人のご和讃に「十方微塵世界の念仏の衆生をみそなわし、摂取してすてざれば阿弥陀と名づけたてまつる」と、念仏の衆生をおさめとって捨てないという、そのお働きをこそ阿弥陀とお呼びすると、お名前とお働きが違わない名体不ニ(みょうたいふに)のおいわれを讃えておられます。

坊守便り ー初参式ー  
 同朋会役員の貝増さんのご長男さんに第二子が誕生され、お寺にお越しになり、「初参りさせていただきます」と言って下さいました。
 赤ちゃんの誕生を祝う儀式は神社にお参りされ、産土神に土地の一員として健やかな成長と長寿をお祈りされますが、神式とは別にお寺でもお勤めさせて頂いています。
新たないのちの誕生を祝い、これからの人生を仏様の慈悲につつまれて歩んで行けるよう念じてお勤めします。
「人身受け難し」人として生まれることは大変難しく尊いことです。「授かったいのち」の尊さを感じ、生まれたばかりの赤ちゃんと共に、お父さん、お母さんとしての自覚を持って出発を誓う儀式が「初参式」です。
赤ちゃんが0歳ならば、お父さん・お母さん、お祖父さん・お祖母さんも0からのスタートです。それぞれの出発点です。
 今日、自然環境は温暖化が進み、破壊され、教育は混乱し、子供達の未来は決して明るいとはいえません。子供達の成長をお念仏の心を基に、自分中心の思いではなく、いただいたいのちのありがたさを受け取って見守っていきたいことでございます。
 お寺での初参式はあまり周知されていないのが現実です。この度のご縁をご紹介して広くお参り下さることを念じております。

五月の行事
15日(土)午後2時〜祥月講・同朋の会
20日(木)午前10時半〜ピラティス
      午後2時〜仏教民謡踊りの会
六月の行事
3 日(木)午前10時半〜ピラティス
      午後2時〜仏教民謡踊りの会
19日(土)午後2時〜祥月講・同朋の会
      講師 光照寺 墨林 浩師
24日(木)午前10時半〜ピラティス
      午後2時〜仏教民謡踊りの会
*コロナ禍の状況に依りましては、急な行事変更  もあり得ます。尚、感染予防に留意して準備致し ておりますが、お越しの節はマスク等のご着用を、 宜しくお願い申し上げます。

















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2021年03月08日

2021年3月

法 悦 3月号 846号



 人、世間愛欲の中にありて

 独り生じ、

 独り死し、

 独り去り、

 独り来たりて

 行に当たりて

 苦楽の地に至り趣く。

 身自らこれに当たるに

 代わる者

 有ること無し

       仏説無量寿経


青色青光
 上記の言葉は大学に入って間もないおよそ45年前、先輩に教えられ、
いまだに忘れられないものです。
 当時まだバブル景気には至っておりませんでしたが、日本経済も成長軌道に
乗り、かつのんきな学生であった私は、さあこれから友達もたくさん作って、
学生生活をエンジョイするぞ、などと思っていただけに、人間はどこどこまで
も孤独な存在であり、それは又、何びとにも代わってもらうことなど、金輪際
あり得ない、という厳しい身の事実を教えられ、大変ショックを受けました。
 歳を重ね、わが身にまで至り届いた業は、自ら担っていくより他ないことと、
いよいようなずかされるばかりですが、逆に言えば、そういう絶対孤独な存在
だからこそ、むしろ人と人との関係性の回復が、願われ続けているのだと
気付かされるのです。
 ところが、人と生まれ、誰にも代わってもらうことの出来ない事実に
うなずくことは出来ても、我が子や大事な人が、大変な苦しみを抱えて
しまった時などに知らされる、代わってやることの出来ないという無力感や
悲しみは、より深いものとなります。
 人間の覚悟などでは、担い切れない、そんな悲しみも、私に先立って共に
悲しんで下さる、如来のお働きの中にあると戴くとき、安心して迷い苦しんで
いく道が開かれるのではないでしょうか。

住職日々随想

 あるご門徒さんから、お寺より差し上げている法語カレンダーの2月の
「死をも恐れないのと、死んで往けるのとは同じではない」という言葉について、
その意味するところは何となく分かるのですが、今ひとつ得心出来ないのですが…、
とご質問をいただきました。
 お訊ねいただいたその方ご自身、予断を許さぬ重い病を抱えておられ、切実に
問わずにはおられなかったのでしょう。
 確かに、死をも恐れない、というのはいかにも勇ましく、そう有りたいものと
思われるのですが、では実際どれほどの人が、そのような境地に達することが
出来るのでしょう?
そしてそこには、恐怖する自らの心を見ようとしない、そんなごまかしはないの
でしょうか?
 この事を親鸞聖人のお言葉に尋ねてみますと、歎異抄の第9章に、「なごり
おしくおもえども、娑婆の縁つきて、ちからなくしておわるときに、彼の土へは
まいるべきなり。いそぎまいりたきこころのなきものを、ことにあわれみたまう
なり。」と、阿弥陀如来のお慈悲は、煩悩が消えることなく、苦悩の旧里である
この娑婆にしがみつく、そのような弱きものにこそ、懸けられてある。
 だから、ますます頼もしいことではないかと、如来大悲のお徳を味わって
おられるのです。
 この事を今少し尋ねてみますと、哲学を志す人にとって必読の書と言われる
「哲学以前」を著された、哲学者の出隆(いで たかし)氏は、古式泳法の達人
でもあったそうですが、「おぼれる人は大概浅いところでおぼれている。
自分の心の重みで おぼれてしまっている。自分の心も体も水に預けてしまった
とき、ぽっかり水に浮く」と述べておられます。
 同じ様に、蓮如上人も「阿弥陀仏を深くたのみまいらせて念仏申せ。」と、
御文の中でたびたび記しておられます。
 ここで大事なことは、阿弥陀仏にたのめではなく、阿弥陀仏をたのめと
仰っていることです。
「に」と「を」の一文字の違いですが、阿弥陀仏にたのむとは、家内安全や
商売繁盛等々、個別様々な事柄を阿弥陀様にお願いするということになります。
 ところが、阿弥陀仏をたのむとは、阿弥陀仏に全て任せ切るということに
なるのです。
 それ故、任せたからには、いかに不都合なことや意に沿わぬ事であったと
しても、わが身にまで至り届いたご縁は、我が果たすべき業として、戴いていく、
そういう決意を賜ることに他ならないのです。
 念仏を往生の手立てや道具にするところには、真実の安心は得られません。
そこから180度転じて、生死の一大事に当たっても任せ切る、揺るがぬ
ご信心を賜ってこそ、人間成就の往生の道が開かれるのです。

坊守便り
 ー孤独・孤立担当大臣の新設ー  
 この度、日本にも孤独・孤立担当大臣が誕生することになりました。
世界的には、3年前、英国に於いて初めて創設されています。
 ある下院議員が選挙活動で個別訪問する中、多くの人が孤独を抱え、
苦しんでいる事に気付きました。
 孤独は不健康の王道のような喫煙・飲み過ぎ・太りすぎ・運動不足よりも
体に悪い影響がある、という分析結果が出されています。
 ロンドン大学の経政学院で行った試算によると、孤独による医療費の損失は、
10年で一人約85万円と試算され、その対策として英国政府は、約28億円
の予算を充てました。
 その取り組みの中、医師に医療ではなく、社会的処方が必要であると診断
された時には、相談員から地域活動への参加を手配されたり、ケアを受けたり
します。
 又、16歳から24歳の若者が、どの年代よりも頻繁に且つ最も強く、
孤独を感じるという調査結果から、小学校の授業にも孤独についての学習が
組みいれられたそうです。。
 先進医療技術の恩恵もあり、人生100年時代と言われる様になり、かつて
無い新しい生活スタイルが求められるようになりました。
 コロナ禍と技術の進歩により、仕事や学校の授業のオンライン化が増え、
人々が直接に接点を持つ事は減りました。コロナ禍の終息後もこの流れは
続くだろうと言われています。
 孤独・孤立担当大臣の新設を聞き、改めて人と人が共に会えることの、
掛け替えなさに想いをはせる事です。
 お寺での聞法の場が、少しでも心の灯火になれば、と願ってやみません。

三月の行事
20日(土)午後2時 春季彼岸永代経法要
     ご講師 伊勢道浄寺 酒井正夫師
*コロナ禍の現状を鑑み、お斎接待は行わず、昼の座のみとさせていただきます。
25日(木)午前10時半〜ピラティス
      午後2時〜仏教民謡踊りの会

四月の行事
17日(土)午後4時 祥月講・同朋の会
              講師 未定    
22日(木)午前10時半〜ピラティス
      午後2時〜仏教民謡踊りの会

*コロナ禍の状況に依りましては、急な行事変更もあり得ます。
 尚、感染予防に留意して準備致しておりますが、お越しの節はマスク等の
 ご着用を、宜しくお願い申し上げます。

posted by ansenji at 23:41| Comment(0) | 法悦