2026年05月30日

2026年6月

 法 悦 6月号 909号

なにごともこころにまかせたることならば、

往生のために千人ころせといわんに、

すなわちころすべし。

しかれども、

一人にてもかないぬべき業縁なきによりて、

害せざるなり。

わがこころのよくて、ころさぬにはあらず。

また害せじとおもうとも、

百人千人をころすこともあるべし

 (中  略)

さるべき業縁のもよおせば、

いかなるふるまいもすべし 
         
         歎異抄第十三条より抜粋

青色青光
 作家の大岡昇平は戦時中の実体験を基に、「野火」や「俘虜記」などを著しましたが、「俘虜記」の冒頭に上記の歎異抄の「わがこころのよくて ころさぬにはあらず」のお言葉を掲げています。
 戦時中、ミンドロ島でマラリヤに罹患しながら、米軍の包囲をかいくぐって敗走を続ける中、たまたま出遭った若い米兵に銃口を向け、撃つチャンスがありながらも撃てなかった、それはいったい何故なのか?
 さらには、エゴイズムをむき出しにする捕虜たちの姿を通して、日本人一人ひとりが抱える欺瞞や戦争責任は?と問うています。
 それらの問いが「わがこころのよくて ころさぬにはあらず さるべき業縁のもよおせば いかなるふるまいもすべし」という、親鸞聖人の人間理解に行き着かせたのでしょう。
 突き詰めれば、この世に善ばかりを行う「極善人」も無ければ、四六時中悪のみを行う「極悪人」も、本当には存在しない。そこにあるのは業縁次第で、善人ともなり、悪人ともなりうる「凡夫」が在るのみであり、その凡夫をこそ救わんと言う弥陀の誓願に照らされて、はじめて人間とはいかなる存在であるかを知らされるのです。

住職日々随想
 歴史は繰り返さないが韻を踏む、と言われますが、いま世界情勢は、第一次世界大戦前夜と非常に似通ってきている、正に新たな戦前ではないかと警鐘を鳴らす方もおられます。
 二度の世界大戦の反省から、築き上げられてきた国際協調の現状の枠組みを、大国が経済力だけでなく、圧倒的な軍事力をもって、他国を威嚇、また実際に攻撃し、力ずくで変えようとしている事を憂えずにはおれません。
 先日縁あって、ポーランドのアウシュビッツ・ビルケナウ絶滅収容所視察研修に参加させて頂きました。
 今回、アウシュビッツ博物館唯一の日本人公式ガイドの中谷剛さんが、わざわざ私たちのために三日間のお休みを取って、アウシュビッツ・ビルケナウ絶滅収容所や、クラフク郊外の広大なユダヤ人墓地を平らげて造られた収容所跡などご案内下さいました。 
 第二次大戦時、ナチスドイツが支配したヨーロッパ各国から、何日も掛け、家畜同様に貨物列車にすし詰めにされ、送られてきたユダヤ民や捕虜・政治犯・同性愛者・障害者・ロマ(ジプシー)などなど、様々な人びとが老若男女を問わずビルケナウで選別され、そのままガス室に送られ、あるいは、ほとんどの人が亡くなった過酷な強制労働に従事させられました。
 正確なところはわかりませんが、その犠牲者の数はユダヤ民六〇〇万人、ソ連軍捕虜三三〇万人、ポーランド市民一八〇万人、ロマ五〇万人、障害者二五万人…と、膨大な人びとがシステマチックに殺害されるという、人類史上類を見ない未曾有の大虐殺、ホロコーストでした。
 これらの犠牲者から奪い取り、はぎ取った遺品の数々の山また山、殺害に用いられた大量のガスの缶、そして何より何百万人も殺害されたガス室は、入っただけで恐ろしさに鳥肌が立ち、息苦しくなるような場所でした。
 アウシュビッツ博物館の元館長のカジミエシュ・スモレンは来場した若者達に「君たちに戦争責任は無い、でもそれを繰り返さない責任はある」と語り続けておられました。
 実にその通りだと思うのですが、そんな辛酸をなめてきたユダヤ民の国家のイスラエルが、パレスチナに対して、大量虐殺を行っていることは歴史の皮肉なのでしょうか。
 仏教の視座から見れば、自他分別の絶対視の極まりが、人間としての他者を見失わせ、その苦しみを見えなくさせていると知らされます。

真宗入門 ーご冥福ー 
 ご葬儀における弔電や弔辞で「ご冥福をお祈りします」といった言葉をよく耳にします、この言葉は真宗門徒は使わないと聞きましたが…
「冥福」とは「冥土(冥途)の幸福」を略した言葉で、「冥土」とは「死者の霊魂がたどっていく道、亡き者がさまよい行く道、亡き者がさまよい行く世界」を表します。
 つまり「冥福を祈る」とは、「さまよい、迷っている世界での幸福を祈る」ということを意味しています。 しかし真宗の教えでは、亡くなった方は、もはや迷うことなく「浄土に帰られ仏となられた」と教えていただきます。
 このように、冥福を祈らずにはおれないその根底には、亡き人を仏さまといただけず、また自らも念仏に生きることも定まらずに、迷っている自分自身の姿があるのではないでしょうか。
迷っているのは亡くなった方ではなく、むしろ私たちのほうではないでしょうか?

法語の味わい  ー 法語カレンダー − 6月号より
 食卓にのぼるための
 そんないのちはありません
 
 とあるレストランで、お子さんが「いただきます」と手をあわせました。するとその子のお母さんが、「お金を払っているのだから、ここではそんなことは言わなくていいよ」と言われたと聞きました。
 子供さんは学校で教わっているのです。「お米やお魚のいのちをいただくのですから、いただきますと言うのですよ、と。
 私たちが食べられるものは植物であれ、動物であれ、すべていのちあるものに限られます。
いのちは他のものの犠牲の上に成り立っているのです。

 カニを食べた 
 カニの一生を食べてしもうた
 カニにもろうた 
 わたしの今日のいのち
 芋を食べた 
 芋の一生を食べてしもうた
 芋にもろうた
 私の今日のいのち
 そう思うたら 
 お念仏がこぼれてやまぬ
                島本邦子 
他の生き物の尊い命をいただき、感謝と畏敬の念を持って、いただいた命を自分の命につなぎます。

坊守便り ー役員交代ー
 前任者の任期満了に伴い、四月から安泉寺の役員さんが交代されました。
同朋の会の新会長には吉川美登利様、女性部長には本岡和子様が就任されました。どうぞよろしくお願いいたします。
お二人とも半世紀に渡り、安泉寺の行事に熱心に足を運んでくださっています。
 安泉寺では、以前、お盆の行事の境内飾りは、提灯を境内に斜めにはわせ、手作りの短冊を飾りました。 短冊には前住職の選定で法語が書かれていました。長年手伝ってくださった役員さんの手書き短冊は、ボロボロになっても、かたずけて捨てられない流麗な筆致でした。
 吉川会長は得意な電気工事の腕前で、絡んだ提灯の電線を巧みに整え、提灯の明かりの風情ある境内演出に、毎年お手伝いをしてくださいました。
 また、前住職は全国の仏跡参拝にもよく出かけられましたが、本岡女性部長はよくお付き合いしてご参加くださいました。ありがたい法縁です。
 どうぞ今後ともよろしくお願いいたします。

六月の行事

4 日(木)午前10時半〜 ピラティス

18日(木)午前10時半〜 ピラティス

20日(土)午後 2時〜 祥月講・同朋の会聞法会
          節団説教 ご講師 園家信勇師

七月の行事

2 日(木)午前10時半〜 ピラティス

11日(土)午後 2時〜 祥月講・同朋の会聞法会
         ご講師 円明寺ご住職 島章師

16日(木)午前10時半〜 ピラティス




付言

 戦争が 廊下の奥に
 立っていた 
     藤原白泉

         














































































posted by ansenji at 22:31| Comment(0) | 法悦

2026年04月30日

2026年5月

 法 悦 5月号 908号

 自灯明・法灯明


さればアーナンダよ

比丘たる者は

この世で自らを島(灯明)とし

自らを拠(よ)り所(どころ)として

他をたよりとせず

法を島(灯明)とし

法を拠り所として

他を拠り所とせず住するがよい

諸行は滅びゆく

怠ることなく努めよ

    (釈尊最後の説法抄訳)大パリニッバーナ経

 青色青光
 「旧奈良監獄」がこの春、博物館として新たに公開されることになりました。
 旧奈良監獄は、明治政府が近代国家形成の象徴として整備した「五大監獄」のうち、唯一現存する建築で、昨年、国の重要文化財に指定されました。
 中央の高い監視塔を中心に放射状に独房が配置され、監視塔からは全ての独房は見えますが、各独房からは監視塔の様子は窺えない構造で、その独特な形状は十八世紀イギリスの哲学者、法学者であるベンサムの考案したパノプティコンと呼ばれるものです。
 のちに二十世紀後半を代表するフランスの哲学者、ミシェル・フーコーがこのパノプティコンについて、実際に監視の目がなくても、「見られているのでは?」
という意識が常に働き、自立的な行動を抑制してしまうという、監視の目の内面化の問題を指摘しています。
 今日テクノロジーの劇的な進化により、SNSなどに代表される「相互監視」は安価に広く、誰もが使える日常の社会基盤にまでなりました。
 誰かの一方的な押し付けというものだけでなく、私たち自らが利便性追求や承認欲求を満たすために、その仕組みに参加しているという側面もあるのです。
 上記の自灯明法灯明のみ教えに明らかなように、他者の評価を内面化し「仮の自己」に縛られてしまっている、その有り様をこそ問わなければならないのです。

住職日々随想
 日々膨大な情報がやりとりされる現代社会、
私たちは様々な「まなざし」の中を生きています。
 人からどう見られているか。どう思われているか。
気づけば、そのまなざしを心の内に取り込み、誰もいないところでも、自分で自分を見張るように生きています。まさにパノプティコン化した自身を生きてしまっているのです。
 それは今に始まったことではなく「我知る、君知る、天知る、地知る(四知)」というように、たとえ人が見ていなくとも、天も地も、そして自分自身も知っている。だからこそ、身を慎むべきであると、そう教えられてきました。
 また私たちは、「世間体」というものを強く意識してきました。人の目にどう映るのか、恥ずかしくないか、と、その思いが私たちの振る舞いを律してきた面もあり、倫理的な評価に値するところではあります。
 しかし、よくよく考えてみるとどうでしょうか。私たちは、「正しいから」そのように行動しているのでしょうか。それとも、「見られているから」そのように振る舞っているのでしょうか。
 もう少し深く見つめてみると、人のまなざし、天のまなざし、世間の目、それらは確かに私たちを支える一方で、ときに、私たちを縛るものともなりえます。
 親鸞聖人の悪人正機(正因)の教えに照らしてみると、私たちは善人であろうとする自分に、深く執着していることに気づかされます。よく見られたい。正しくありたいと、その思いそのものが知らず知らずのうちに、自分を苦しめることがあります。
 蓮如上人は「仏法は無我にて候」と仰っています。
固定した、変わらぬ「これが私である」というものなどはなく、人に見せている自分も、自分で守ろうとしている自分も、どちらも移ろいゆく縁によって形づくられた仮の姿なのだと。
 では私たちは何を拠り所とすればよいのでしょう?
 仏教は「どう見られるか」ではなく、その「行い」が、自他に苦しみをもたらすものとなるのか、あるいは苦しみを和らげるのか、そこにこそ、まなこを開いていくことが大切であると説きます。
 さらに新たな問いも生まれてきます。多くのまなざしの中で生きるこの私が、その全てのまなざしを離れたとき、なおも残るものは何なのでしょう?
 その問いに対し、性急に答えを求めるより、問いを保ち続けることで、日々の生活の中、ふと「ああ、今わたしは誰かのまなざしで自分を見ているな」と気づく、その小さな気づきが、私たちを少しだけ自由にし、また、他者へのやさしさをも開いていくものとなるのではないでしょうか。

真宗入門 ーお焼香ー 
 お焼香はもともとインドから伝わってきた習慣です。
気温が高くなるインドでは、お香を身体に塗ったり、衣服につけたりして身を清める習慣がありました。
 やがてお香を焚いて心身を清浄にする、そのことが仏教の儀式にも取り入れられたのです。
 親鸞聖人は、香りに染まった人がその身にかぐわしい香気があるように、仏を憶念すれば、念仏の智慧が身に備わることを「香光荘厳ともうす」(浄土和讃)とうたわれています。
 このようにお香は大事な意味を持っているのです。
お焼香の作法は宗派により違いはありますが、立席・座席に作法の違いはありません。
 他宗の方の葬儀や法事にお参りされる場合であっても、大谷派の作法でお焼香しても差し支えありません。
【大谷派のお焼香】
@焼香台の前に進み、威儀を正してご本尊を仰ぎ見ます。この時合掌はしません。
A左手を焼香卓の上に軽く添え右手で香をつまみます。
B香炉の香炭の上に香を二度くべます。この時、お香を額の上に押しいただいたりしません。
C次の人のために指先で香盒のお香の乱れを整えます。
D合掌しお念仏を称え、合掌をといてから丁寧に頭礼し退きます。

法語の味わい ー法語カレンダー 5月号より
 ことばの暴力は
 血は出ないが 傷は深い
 
日々、何気なく口にする言葉ですが、自分の言葉は忘れても、受けた言葉に
よっては忘れられないことがあります。
 たった一言が胸に刺さり、食事ものどを通らず、夜も寝られぬということもあり、場合によっては言葉の暴力が人の命を奪うこともあるのです。
 他人事ではありません。私自身気づいていなくても、周りを傷つけてきたかもしれません。
 自身、障害を持ちながらも、熊本の養護学校の施設長をしておられる、原田大助さんの詩に
「血が出たら 痛いってわかるのにさっきな 言葉で 俺 けがしとるんやわ」
 仏教には「和顔愛語」という言葉があります。「一期一会」のご縁の中で、自分の発する言葉が「慈しみをもって」発する言葉であるのか、常に肝に銘じる必要がありますね。

坊守便り ー花まつり(降誕会)ー
 4月19日に花まつり・降誕会をお勤めさせていただきました。
花まつりはお釈迦様のご誕生をお祝いする仏教行事です。
 今年も本堂内に花御堂をお迎えし、色とりどりに花を飾り、また境内の
石版の誕生仏にも、花化粧させていただきました。
 お釈迦様は生まれてすぐ七歩あゆみ、右手は天を、左手は地をさし
「天上天下唯我独尊」といわれました。私たちは常に「六道」の迷いの世界を生きています。
七歩あゆまれたということは、迷いの世界を越えられたことを表しているともいわれています。
 私たちの一人ひとりが、他の誰とも代わることできない尊い存在であることに目覚め、生まれた意義を確かめる機縁としてお釈迦様のお誕生をお祝いしました。 生野読み聞かせの会「すみれ」の嶽恵子さんが来てくださり、朗読「ぬしからのてがみ」、生野の民話「安泉寺の寺子屋」をご披露いただき、すばらしい語りを聞かせていただきました。
 そしてご法話は、長年本山に勤め、退職された現在は、全国でお話をされている鈴木君代さんにお越しいただきました。
 シンガーソング僧侶と自称し、素敵な歌とギターで「お念仏」との出会い、「かけがえのないいのちの大切さ」をさわやかに伝えてくださいました。素敵な法座となりました。

五月の行事
7 日(木)午前10時半〜 ピラティス
 
16日(土)午前9時〜12時半 大阪教区同朋大会
                      参加
21日(木)午前10時半〜 ピラティス

六月の行事
4 日(木)午前10時半〜 ピラティス

18日(木)午前10時半〜 ピラティス

20日(土)午後 2時〜 祥月講・同朋の会聞法会
          節団説教 ご講師 園家信勇師

寸言

 宗教はひとを縛るためのものではない
 ひとが生き直すための よりどころ


         














































































posted by ansenji at 14:05| Comment(0) | 法悦

2026年03月28日

2026年4月

 法 悦4月  907号

 天上天下(てんじようてんげ)唯我独尊(ゆいがどくそん)

兜率天(とそつてん)に処(しよ)して正法(しようぼう)を弘宣(ぐせん)し、

かの天宮(てんぐう)を捨(す)てて、神(じん)を母胎(もたい)に降(くだ)す。

右脇(うきよう)より生(しよう)じて現(げん)じて七歩(しちぶ)を行(ぎよう)ず。

光明顕曜(こうみようけんによう)にして

普(あまね)く十方無量(じつぽうむりよう)の仏土(ぶつど)を照らしたまう。

六種に震動(しんどう)す。

声を挙(あ)げて自(みずか)ら称(とな)う。

「吾(われ)当(まさ)に世(よ)において無上尊(むじようそん)となるべし」と。

『仏説無量寿経 巻上』

 青色青光
 4月8日はお釈迦様のお誕生日、多くの仏教国では「降誕会」として、国を挙げての祝日になっています。
日本でも花まつりと称して、各地のお寺で花御堂に安置された誕生仏に、甘茶を掛けてお祝いします。
 上記は仏説無量寿経に説かれた釈尊誕生の一節です。
弥勒菩薩の世界である兜率天で広くみ教えを説いておられたお釈迦様が、その魂神(こんじん)をこの世界に降して、母であるマヤ夫人の体内に宿り、月満ちてお生まれになって、すぐに七歩(迷いの世界=六道を越えて)歩まれ、「我、世に於いて無上尊となるべし」と獅子吼されるや、歓喜に打ち震えた世界は光に包まれ、天からは花びらが舞い、妙なる音楽が流れてきたと説かれます。
 この物語でお釈迦様は何をお伝えになろうとされたのでしょうか?それは決して自分がこの世で一番尊いと仰ったのではありません。
 自らの人生は誰にも代わってもらえない、だからこそ尊いという身の事実を明らかにせん、という決意表明に他ならず、それは正にいのちの独立宣言とも言えるものではないでしょうか。
 さらに仏教は全ていのちは、単に生まれてから死ぬまでではなく、誕生に到るまでの久遠の歴史を担っているのだと、その重さとかけがえなさを説くのです。

住職日々随想
 近年、オウム真理教や旧統一教会などの、いわゆるカルト宗教が関わって、社会を揺るがす事件に発展するそんな事案が続きました。
 そういった状況の中、宗教そのものに対して過剰な警戒感を持って、遠ざけようとする方もおられます。
 しかし本来宗教とは何なのでしょう? 
そしてそれは不要なものなのでしょうか? 
 原始の日本語で真ん中のことを「マウチネ」と言いましたが、転じて後にムネと発音するように変化しました。家の中心を「棟」身体の中心を「胸」と言うように、「宗」もムネと発音しますが、人間の営みの真ん中にあるものが「宗」であると言えるでしょう。
 秦の始皇帝の宰相であった呂不韋が作った初めての辞典「呂師春秋」に「宗をもって道となす」とあり、まさに人の歩む中心「宗」が歩むべき道となると説いています。
 知の巨人と言われた吉本隆明氏が「共同幻想」という概念を展開しておられます。
 家族、村、国家、宗教、貨幣、法律など、皆が「これは大切だ」と信じているからこそ価値があり、皆が守ると決めているからこそ、時に絶大な力を持って成り立っている、それを共同幻想と定義されました。
 わけても生とは何か、死とは何か、苦とは何か、そして善悪とは…と様々な問いが生まれてきますが、個人の内面だけでは支えきれない、これら多くの問いに応えようとしてきたものが宗教だと言うのです。
 実際、宗教は神話、教義、儀礼などといったものを通して、集団で共有できる物語を成り立たせ、やがて個人を超えて人々を結びつける共同幻想となります。
 また共同幻想としての宗教は、喪失や死を受け止め、苦しみに意味を与え、孤独を越えさせるなど、人を支える力ともなり得ますし、戒律や道徳、善悪の基準、共同体の規範や法を定義づけるなど、社会を秩序だったものにする力もあります。
 一方、共同幻想には、信じない者を排除したり、絶対化されると暴力を生んだり、権力と結びついて人を縛るものともなり得ます。
 ある意味、宗教戦争やカルトの問題は、共同幻想が自らを顧みる力を失った結果だと言えましょう。
しかし仏教は、共同幻想を否定も肯定もしてしまわない立場を取ります。国家も自我も「宗教的権威」さえも、すべては縁起によって仮に成り立っている仮有のものだと。また仏教は私たちに「その幻想を絶対的なものとして、使われ、奴隷となっていないか?」と問いかけてきます。
 一切衆生を、選ばず嫌わず見捨てないという阿弥陀仏のご本願は、強い共同幻想を作るため、というよりも幻想に縛られた私を解きほぐすお働き、人が生き直すためのよりどころ、と頂けるのではないでしょうか。

真宗入門 ーご朱印ー 
 浄土真宗ではご朱印は致しません。朱印の起源は巡礼者が書き写した経文をお寺や霊場に納めた際、寺院から授与された「納経印」であったと言われています。 それが四国八十八か所の霊場巡礼などと結びつき、すべての霊場から朱印を授与されると、願が成就するとされて盛んになったと伝えられています。
 江戸時代以降、庶民が寺社へお参りすることが一般的になると、参拝するだけでご朱印が授与されるようになり、その影響から明治時代には、神社でもご朱印を授与するようになりました。
 ご朱印を行う背景には「巡礼を果たすと大きな功徳がある」という考えがあるようです。
 たしかに八十八ヶ所といったお寺や霊場すべてを巡り切ったら、達成感を感じたり、何か良い事がおこるような気がするでしょう。
 しかし、それは欲望を追い求めてやまない、人間の一つの姿の表れなのではないでしょうか?
 その実、たくさん朱印を集めることで、自らの欲望を満たそうとし、ますます迷いを深めていくのです。
 多くのお寺にお参りすることや、お参りする回数にとらわれてはいけません。大切なのは、仏さまの教えを聞き、仏さまの教えを依りどころとして生きていく人が誕生することなのです。つまり、浄土真宗では仏さまの教えから遠ざかり、自らの思いを叶えるものとして期待する「ご朱印」は行っていないのです。

法語の味わい ー法語カレンダー 4月号より
 ご命日は亡き方が
 私を案じてくださる日


 あるご門徒さんが月参りの時「お寺さんにお参りして頂き、亡くなったご先祖様もさぞかし喜んでいることでしょう。」と仰いました。
 ご先祖様を大切にされるお気持ちに違いないでしょうが、その受け止めは正しいのでしょうか?
 むしろ亡き方から掛けられた願いを、遺された者がきちんと受け取ることが大切なのではないでしょうか。
 つまり、いのちをかけてまで「 お念仏に出遇ってくれよ」と呼んで下さるその声を心で聞き取ることです。
 亡き方をご縁として、お念仏に出遇われた方が、「親のおかげで仏法聴聞するようになりました。私が亡き親を案じているつもりでしたが、むしろ私を案じてくださっていたのですね。」と。

坊守便り ー 自転車道交法のお話し ー
 安泉寺の近辺は細い路地が多く、大勢の方の暮らしに自転車は必需品です。
せっかちに自転車を急がせる方も多く、安泉寺門徒会館の角でもこれまで何度か
自転車同士の衝突が起こったことがあり、派手に転倒して怪我をされた方もおられました。
 4月から自転車の交通違反に、青色切符制度が導入されます。この際、基本を教えていただこうと、坊守がお世話係をさせていただいている地区の委員会で、地元警察の交通課の方にお越し頂き、ご説明頂きました。
「大きく変わることは青色切符制度が導入されたことで、基本は今までと変わりません。」とのこと。、  まずは注意喚起の警告を行い、違反になることを周知していくことが目的です、と仰っておられました。
とは言え、113もの違反の種類があり、ながらスマホなどは、最高額の12、000円の罰金があります。
 とにかく、まずは安全五則を参考にすることです。@車道左側通行が原則、一部例外の歩道は歩行者優先A交差点では、信号と一時停止を守って必ず安全確認
@夜間はライトを点灯
A飲酒運転は禁止
Bヘルメットを着用。
 高齢化の進む社会、自転車とは上手に付き合っていきたいものです。

四月の行事
9 日(木)午前10時半〜 ピラティス

18日(土)午後2時〜 祥月講・同朋の会聞法会
      ご法話とオリジナル曲弾き語り
            鈴木君代師

23日(木)午前10時半〜 ピラティス

五月の行事
7 日(木)午前10時半〜 ピラティス
 
16日(土)午前9時〜12時半 大阪教区同朋大会
                      参加
21日(木)午前10時半〜 ピラティス


寸言
 平和への道は無い
 平和こそが道なのだ

マハトマ・ガンジー
         














































































posted by ansenji at 21:47| Comment(0) | 法悦