2025年10月05日

2025年10月

 法 悦  10月 901号



 前(さき)に生まれん者は

 後(のち)を導き

 後(のち)に生まれん者は

 前を訪(とぶら)え

 連続無窮(れんぞくむぐう)にして

 願わくは休止(くし)せざらしめんと欲す

 無辺の生死海(しょうじかい)を

 尽くさんがためのゆえなり

  親鸞聖人 教行信証 化身土末巻

青色青光
 おはようございます。こんにちは。さようなら…毎日交わす挨拶ですが、
挨拶にはいったいどういう意味があるのでしょう?
 挨拶の本来の意味は仏教修行僧の問答「一挨一拶」からきています。
師匠と弟子が互いに「挨…おす」「拶…せまる」と、どれほど悟りに近づいたか、
確かめ問答し合うのですが、転じて相手の様子をうかがい、信頼や安心感を
醸成する現代の挨拶となりました。
 医学博士・解剖学者の養老孟司氏は、幼い頃から挨拶がどうにも苦手だった
そうです。
 自身なぜこんなに挨拶が苦手なんだろう、と疑問を持ち続けておられましたが
、四十歳を過ぎたある時、親族の葬儀からの帰り道、ホームで電車を待って
いると、孟司氏が五歳の時に亡くなった父親の記憶が、まざまざとよみがえった
そうです。
 ある朝、病床の父親が、長年飼っていた文鳥を逃がしてやる様子を、不思
議な思いで眺めていたそうです。
そしてその夜、たたき起こされ父親の枕元に連れてこられた孟司少年に、
集まった親戚か家人の誰かから「お父さんに、さよならを言いなさい。」
と言われましたが、言葉に詰まる孟司少年に、父親はにっこり笑いかけ、直後に
血を吐いて亡くなったそうです。
 ああ、この事があって「さようならを言わない事が父の死を止める事になる
んじゃないか」と、大切な人の死を受け止められない幼い思いが、挨拶を苦手に
していたのかと気づき、その場で泣き崩れたそうです。
この時初めて父親の死を受け止め、以後普通に挨拶出来るようになった
そうです。

住職日々随想
 言葉は言霊(ことだま)、それぞれの言葉には、それぞれ一つのいのちが
宿っています。
 普段何気なく使っている言葉にも、それぞれ由来が有り、そこに込められた
願いも有るのです。
 「ご機嫌よう」の機嫌は、仏教の「機…衆生の心のありようや、そのはたらき
・嫌…嫌うという意味ではなく、機に応じた仏の教えとお働きという意味」から
きています。
つまり衆生の心の状態に応じる、仏の対機説法を表していましたが、転じて心の
ありようや体調を尋ね、相手の安寧を念ずる挨拶として「ご機嫌よう」となった
ものです。
 また「もったいない」も漢字で書くとよくわかるのですが、「勿体無い…体、
つまり姿形は勿(なか)れども無ではない、そこにお陰さまといただける、見え
ざるお働きがある」という心が込められているのです。
 今ひとつ「ありがとう」も漢字で書けば「有り難う…有ることが難い、
あり得ないこと」という意味があります。
まさに一期一会、滅多に無いご縁に遇わせて頂きました、という感謝の気持ちの
表現です。
 その反対は「当たり前」という心ですが、そこを立場とすれば、親はいて
当たり前、住むところも有って当たり前、食事も出来て当たり前、などなど、
そこに謝念は無く、どれか一つでも満たされなければむしろ不満に思う、そんな
心根が生まれ育ってきます。
 ずいぶん以前の事になりますが、富山の小学校で給食の時の「いただきます、
ごちそうさまでした」と子ども達に合掌して言わせる事は、特定の宗教の押し
つけではないのか、という一部保護者の声を受け、ホイッスルを合図にした、
という事が話題になり物議を醸した事がありました。
 その後はそういった動きは広がりを見せず、個別の現場で対応するという
事に落ち着いたようです。
 しかし、「いただきます」は、ひとつの料理となるまでの、様々なご苦労に
対する感謝、そしてなにより「食材」となるものは全ていのちあったもの、
それを奪い頂かなければ、この身を保ち育てる事の出来ない事実に対する畏怖の
念の表れなのです。
 キリスト教の旧約聖書「創世記」には、人間は神から、この世の全てを
支配する権利が与えられていると説かれています。現代の神学では支配という
よりも、世界を守る管理責任者、という意味合いで捉えられているようですが、
それでも仏教の視点から見れば、そこに人間の持つ傲慢さが見て取れます。
 仏教にご縁を頂いた者として、言霊を大切に、むしろ言葉を常に生かすように
心がけたい事です。

真宗入門 ーお念仏ー
 ご法事の折りやお寺にお参りした折りなど、仏事の時はいつも「お念仏を
称えましょう」と言われます。お念仏について考えてみましょう。
 お念仏を呪文のように思われている方もいるかもしれません。しかしお念仏は
呪文ではありません。
 お念仏の本来の意味は文字どおり「仏を憶念する事」、そして「仏から念ぜら
れている」私だと知ることです。
 善導大師や法然上人など、親鸞聖人が尊ばれた浄土教の祖師方は、ただ口に
「南無阿弥陀仏」と称える「称名念仏」こそが、阿弥陀仏があらゆる衆生
〈いのちあるすべて〉をもれなく救うために選ばれた唯一の行である、と
明らかにされました。
 ですから私たちの口から出るお念仏は、私達の能力や善悪によらず、
すべてのものを救おうとする仏さまの大悲心の表れなのです。

法語の味わい
  ー法語カレンダー10月号よりー
 親鸞さまの お育てで 
 今年も集う 報恩講


 浄土真宗にご縁を頂く私たちには、三人の親がおられます。生みの親・
育ての親・そしていのちの親です。
「どんなことがあっても、あなたのいのちを虚しく終わらせはしませんよ」と、
無上殊勝の願いを私にかけてくださった阿弥陀さまに遇わせるために、祖先の
方々は「親さま、親さま」と親しんでこられました。
 このいのちの親、阿弥陀さまに遇わせるための、親鸞様九十年のご苦労
だったのです。
 このお育てに遇えなければ、私の一生も虚しいものとなる事でしょう。
「ふれあるき」という仏教讃歌があります。
♪ 年に一度の報恩講に ハアよおまいり 花やんもこいや 雪子もこい
ちゅうたら おまいりまいりのふれあるき 甘酒できたよケンチャン炊けたよ
 みんなみんな おまいりおまいり お正信偈となえて お説教聴聞 
ハアよおまいりまいり ♪
 報恩講は七百年受け継がれてきた大切なお勤めです。

坊守便り
 大阪教区坊守会から広島平和学習に参加させていただき、原爆ドーム・
平和記念公園・平和記念資料館を回らせて頂きました。
 第二次世界大戦末期、人類史上初めて使用された核兵器により被爆した
原爆ドームは、当時の姿のまま立ち続け、街の復興の際にも核兵器の惨禍を
伝えるものとして残されました。
 現在、原爆慰霊碑、原爆の子など、平和の願いを込めた数々のモニュメント
を含め、平和記念公園として整備され、時代を超えて核兵器廃絶と、世界の
恒久平和の大切さを訴え続けています。
 翌日は瀬戸内の大久野島に伺いました。かつてこの島を日本の科学兵器
製造拠点として、毒ガスの製造が行われていました。
 戦時中は地図から消された島として、ほとんどの日本人には知られて
いませんでしたが、ここで作られた毒ガスは多くの人を苦しめました。
 平和ボランティアの方からは、原爆を落とされた被害の歴史と共に、
毒ガスを使用した加害の歴史も共に心に刻んでください、とお話をいただきました。 

十月の行事

2 日(木) 午前10時半〜 ピラティス

18日(土) 午後2時〜 祥月講・同朋の会聞法会
ご講師 唯コ寺住職 當麻円純師

30日(木) 午前10時半〜 ピラティス

十一月の行事

2 日(日) 午後1時〜  おみがき清掃ご奉仕

6 日(木) 午前10時半〜 ピラティス

12日(水) 午後2時・夕方5時〜 報恩講
  ご講師 泉大津 南冥寺住職 戸次公正師 
20日(木) 午前10時半〜 ピラティス

寸 言

情報の訂正は 可能だが

感情の修正は 難しい 
     荻上 チキ













































































































































































































































posted by ansenji at 00:26| Comment(0) | 法悦

2025年08月31日

2025年9月

 法 悦9月号 900号

  アンパンマンのマーチ

@なんのために生まれて 何をして生きるのか
 答えられないなんて そんなのはいやだ
 今を生きることで あついこころ燃える
 だから君は行くんだ ほほえんで
 そうだうれしいいんだ 生きる喜び
 たとえ胸の傷が 痛んでも
*ああアンパンマン 優しいいきみは
 行け!みんなの夢 まもるため

Aなにが君の幸せ 何をして喜ぶ
 わからないまま終わる そんなのはいやだ!
 忘れないで夢を こぼさないで涙
 だから君は飛ぶんだ どこまでも
 そうだ恐れないで みんなのために
 愛と勇気だけが友だちさ
*(繰り返し)
 ときは早く過ぎる 光る星は消える
 だから君は行くんだ ほほえんで
そうだうれしいんだ 生きる喜び
 たとえどんな敵が 相手でも
*(繰り返し)

青色青光
 8月末現在も放映されている、NHK朝の連続テレビ小説「アンパン」の主人公
の夫、やなせたかし氏は若き日の従軍体験から、戦場の狂気や人と人が傷つけ
合い、命が軽んじられる惨状を目の当たりにし、自身も飢餓に苦しみました。
そういった経験から戦争は絶対してはならないと、深く心に刻みました。
 だからこそ氏の描くアンパンマンは、正義の味方ではあっても、闘う
ヒーローではなく、おなかをすかせて困っている人に、アンパンで出来た自身
の顔分け与える、心優しきヒーローとして描かれているのです。
 「奪い合えば足らず、分かち合えば余る」と言われますが、正義というもの
がこの世に在るとするならば、それは分かち合い助け合うところにしか無い、
との氏の確信が、そこに込められているのでしょう。
 お釈迦様の出身部族であるシャカ族は、隣国コーサラ国王の深い恨みを買い、
老いも若きも一族全員が殺戮され滅亡しました。
 お釈迦様ご自身が、そのような底知れぬ悲しみを経験されたが故に、戒律の
第一に「不殺生戒」を設けられ、「恨みをもって恨みに報いるに、その恨み
止むこと無し、恨みを捨ててこそ恨みは止むのである。」と説かれ、どこまで
も慈悲心をもって、あい対してこそ、真実の正義となる事を説かれたのです。
 多くの争いが「正義は我にあり」と、自身の立場を互いに主張し合うところ
から生まれますが、自身を含め人間の持つ弱さを受け入れ、いたらぬ者同士
との自覚を持つ事が、真の平和を切り開く機縁となるのです。

住職日々随想
 先日あるラジオ番組で、こんなお話を耳にしました。
5歳の娘さんを持つお母さんからの投稿で「お母さん、戦争ってなあに?」と
娘さんに尋ねられ、少し考えてから「う〜ん、大人のケンカかなぁ」と応えた
ところ、娘さんが驚いたように「大人なのに、なんでケンカするの?」と…
 私はこのエピソードを耳にして、胸がいっぱいになりました。こどもは
物事をとてもまっすぐに見ます。
私たち大人は、国益のためだとか、安全保障のためだとか、戦争ですら様々
理屈を付けて正当化したりします、が、こどもの目から見れば、互いに傷つけ
合い、殺し合う最悪の「ケンカ」にしか見えないのです。
 「大人なのになんで?」という問いかけに、私たち人間の持つ弱さ、心の
闇があぶり出されます。言い訳をいくら重ねても、こどものまっすぐな言葉は
その言い訳をすべて打ち砕きます。
 子ども達の信頼を裏切ってまで、本当に争いが必要なのか?と、立ち止
まって考えさせられるのです。
 およそ人間は過剰さを抱え持つ生き物、百獣の王ライオンは目の前を獲物が
通っても、空腹でなければ襲うことはありません。しかし人間は、空腹でなく
ても蓄えるために殺しもしますし、そこから利益を得ることを目指したり
もします。
 また子孫を残すために、全ての生き物は生殖をしますが、多くはその役割を
果たせば命を終えます。
カマキリや鈴虫などは、交尾を終えればオスはメスの餌となり、次世代の栄養
となりますが、特に人間はその後も、60年70年と生きることもあります。
 生きとし生けるものは、その生き方に迷いがありません。
しかし、過剰なものを抱え持つ人間のみが、それを喜びともしますが、また
苦しむ事にもなります。
まさに煩悩具足(煩悩に於いては欠けたるものが無い)であるが故に、迷いも
また深いと言えましょう。
 殊に、むさぼりの煩悩、貪欲(とんよく)、怒りや憎しみの煩悩、瞋恚
(しんに)、そして無知や愚かさの愚痴(ぐち)の三毒の煩悩は、親鸞様が
「凡夫というは、無明煩悩われらが身に満ち満ちて、欲も多く、いかり、
腹立ち、そねみ、妬むこころ多くひまなくして、臨終の一念にいたるまで、
とどまらず、きえず、たえず」と述べておられますように、命終えるその時
まで消えることは無く、その極まりとして戦争を引き起こしもするのです。
 こどものまっすぐな「なんで大人なのにケンカをするの?」の声に耳を傾け、
その声を忘れずに私の問いとして問い続けることが、真の平和への第一歩、
とは言えないでしょうか。

真宗入門 ーお釈迦様の呼び名ー
 お釈迦様をはじめとする仏さまには、様々な呼び名があります。
 お釈迦様がお悟りを開かれて以来、お敬いの気持ちと親しみを込め、
様々な呼び名が用いられるようになりました。
 仏陀ー 目覚めた人、悟った人
 釈迦ー シャカ族のお生まれの方
 釈迦牟尼ー シャカ族の聖者
 世尊ー 世界中から尊敬される方
 如来ー 真如の世界から来られた方。そのお働き
 仏陀(仏)ー真理そのものになった方
 ゴータマー 尊者。目的を達成した方
      (王子であった頃のお名前と合わせて
       ゴータマ・シッダールタ)
 大聖世尊・世雄ー 大いなる聖者・勇者
 天人師ー 人も神も導きたもう師
 能仁ー 慈悲をよくおこなう方    
その他ー応供・正遍知・明行足・善逝・世間解・無上士・調御丈夫など
があります。
 殊に阿弥陀如来は、南無阿弥陀仏というみ名をもって、私たち衆生の
救いを成就された仏様。まさに仏名を称するのは、我ら衆生の報恩行に
他なりません。
 
 念仏は親の呼び声 子の返事
 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏   浅原才一

法語の味わい ー法語カレンダー9月号よりー
 長寿たまわったのも
 仏法聴聞のご催促


 盂蘭盆会をお勤めさせて頂きました、お盆には多くの方が集まってくだ
さり、本堂で阿弥陀様に手を合わせ、共に正信偈同朋奉賛式でお勤めします。
 永年お付き合いしてきたご門徒さんにも、高齢な方が増えました。
杖をたよりに遠方からもお越し下さる方もあります。
 久しぶりにお会いし、嬉しくてお声を掛けますと、「日頃は自宅に来て
いただくばかりですが、年に一度は、お寺に足を運ばないといけません。」
と、気丈に言ってくださる方、ご高齢のお父様、お母様を気遣い、初めて
付き添ってお越しになった息子さん娘さんも何人かお見かけしました。
 亡き方のご供養を願い、住職のお話に耳を傾ける。お母様を気遣う息子様
も共に聴聞くださる、ありがたいご縁でした。

坊守便り ー 民生委員子育て支援幼稚園 ー

 地域の民生委員をさせて頂いていますが、様々な活動の一環として、月に
一度、幼稚園に入る前の赤ちゃんや子供達に、お友達とふれあう場を設け、
お世話させていただいています。
 幼稚園に上がる前には、よそのお子さんと会う機会がほとんどないので、
お母さん達にも好評です。
 子供の体重や発育の具合も気になるし、赤ちゃんとの接し方にも自信が持て
ないお母さん方に、保健師さんや保育所の先生がアドバイスして下さいます。
 生まれて間もない赤ちゃんが、体操をしてもらってニコニコしている姿を
見て、保育もどんどん善いように進んでいるんだと感心しています。
 夏の3ヶ月は、特別に日よけのテントやビニールプールを設営します。
衛生面にも気を付けながら、掛かり湯出来るよう沢山のバケツに、ぬるめの
お湯も用意します。
 委員も3ヶ月はフル動員で、子供達と一緒に水をかぶりながら、お手伝い
する楽しい時間です。 

九月の行事

4 日(木) 午前10時半〜 ピラティス

18日(木) 午前10時半〜 ピラティス

20日(土) 午後2時〜   秋季彼岸永代経法要
ご講師 阿倍野 即応寺 藤井善隆師

十月の行事

2 日(木) 午前10時半〜 ピラティス

18日(土) 午後2時〜 祥月講・同朋の会聞法会
ご講師 唯コ寺住職 當麻円純師

30日(木) 午前10時半〜 ピラティス

寸言
何も出来ねぇから 助けてもらうんだ!
俺は助けてもらわねぇと
生きていけねぇ自信がある!     モンキー・D・ルフィ(one pieceより)














































































































































































































































posted by ansenji at 13:37| Comment(0) | なんでも質問箱

2025年07月30日

2025年8月

 法 悦8月号 899号

ナチスが共産主義者を連れ去ったとき、
私は声を上げなかった。
なぜなら私は共産主義者ではなかったから。

その次にユダヤ人が連れ去られた。
でも、私はユダヤ人ではなかったので、
何もしなかった。

彼らが社会主義者や労働組合員を牢獄に入れたとき、
私は声を上げなかった。
なぜなら私は社会主義者でも、
労働組合員でもなかったから。

そして教会の人たちが捕まった。
けれども私は何も出来なかった。

そして彼らが私を捕まえに来たとき、
私のために声を上げる者は
もう誰ひとり残っていなかった。
        マルティン ニーメラー牧師

青色青光
 今回の参議院議員選挙に於いて、国政に対する課題がさまざま提起され
ましたが、大変気になる意見が飛び出してきて憂慮しています。
 それは熟慮した上でのものなのか、単なる選挙向けのリップサービスなのか、
定かではありませんが、我が国を取り巻く安全保障環境が不安定化している
ことをとらえて、唯一の被爆国である日本の「核武装論」を声高に主張する
方が、ついに当選されました。
 核兵器のもたらす圧倒的な破壊と殺戮、世代を超えて影響し続ける放射能
被爆に、今も苦しんむ方々、核廃絶に命がけで取り組んでおられる方々の声、
そういったことに対する思いがあったのか、現実として核保有国に囲まれ、
自ら米国の「核の傘」にある我が国の現状を考えれば、そういう意見のある
事も理解出来なくもありませんが、国政を担っていこうとする方の発言と
しては、あまりに軽率としか思えません。
 かつて原爆誕生に深く関わり、取り返しのつかない被害の深刻さに慚愧
したアインシュタイン博士が、敗者しかない核戦争後を想像し「第3次
世界大戦がどのようにおこなわれるかは私にはわからないが、第4次
世界大戦で何が使われるかはお教えできる。石だ!」
と、博士の発言を待つまでもなく、この矛盾しかない現実に、それでも
踏みとどまって、核にNOと言い続ける胆力こそが、人類全てに求められ
ている、とは言えないでしょうか。
 殊に我々念仏者の真に求めるべきは、智慧と慈悲の極まりを具現した
安楽国=浄土なのです。  

住職日々随想
 「力の国と願いの国」 ー浄土の憲法・四十八願ー
 国の根本法は言うまでもなく憲法です。憲法にはその国の人びとの
理想とする国のあり様が表されています。
 日本の現行憲法はGHQの押しつけ憲法だ、と批判する向きもありますが、
80年近く多くの国民の支持を得てきた事実もあります。
わけても国民主権や戦争放棄、指導者の横暴をとどめるさまざまな
条文など、民主主義を支える基本的な理念が定められています。
 ところが今回の参議院選挙で、大きく躍進した政党の公表した
憲法草案などは、天皇が神聖な元首であると、はっきり書かれていたり、
国民の自由や権利より国の「秩序」や「道徳」を重んじ、戦前の治安
維持法もかくやと思われる条文や、徴兵制の復活を匂わせる条文もあり、
国民に国家に対する忠誠を求めています。
 また何か緊急事態があれば、人びとの人権や自由を制限出来るように
するなど、あくまでも上からのルールで社会を縛る、という発想が顕著
なものです。
 それは人びとに国に対して尽くすことを強制し、そうできない人は、
取り残されたり自由を奪われたりしかねないもので、弱い人、失敗した人、
他の人と違う人は「国民としてふさわしくない人」と、排除されて
しまいかねません。これはまさに「力による秩序」の世界です。
 こういった世界観と全く異なる世界の有り様が説かれている教えが
あります
。それは仏教の根本理念を表した阿弥陀仏の治める国=浄土を願うと
いうものです。
 阿弥陀仏が法蔵菩薩と名告り、真に求めるべき世界の有り様を四十八
の誓いに込め、この誓いが成就しなければ仏とは成らないと誓われ、
兆歳永劫のご修行の末、ついに願成就して阿弥陀仏となられた、と
仏説無量寿経に説かれています。
 そこに貫かれているのは、一切衆生を「えらばず・きらわず・
見すてない」という大慈大悲のこころです。 
 誰もが強く賢く善き人でありたいと願っていますが、現実には強く
賢くあることは難しく、時に過ちを犯してしまう、そういう衆生を
こそみそなわして「弱いままでいい、失敗してもかまわない、あなたの
命はあるがままで尊い」と語りかけてくださいます。
 つまり、力ではなく、慈しみと信頼で人を支える願いの国であり、
また、阿弥陀仏は私たち一人ひとりの中に「光を見る、そんなあなたに
こそ願いが届いている」と、無限の励ましをくださる仏さまなのです。
 私たちは、どのような世界を生きていきたいのか、どんな法に守られ
、どんな願いに支えられていたいのか、いつか誰かの答えを待つの
ではなく、今を生きる私自身が選び取るものなのです。

真宗入門 ー阿弥陀さまとお釈迦さまー
 阿弥陀様とお釈迦様はどう違うのでしょうか?
お釈迦様は、今からおよそ2500年前に、北インドの釈迦族の王子さま
としてお生まれになりました。お名前はシッダールタです。
 あるとき、生まれた者はみな老い、時に病み、誰もが死んでしまう
という、身の事実に深く悩まれました。 
 そこで、その苦しみを乗り超えるため、29歳で城を出て出家し修行者
となられました。
6年間の苦行の後、菩提樹のもとでおさとりを開かれ、仏陀(目覚めた人)
となられました。これは歴史上の事実です。
 一方、阿弥陀様は歴史上の人物ではありません。
阿弥陀如来とは、「いつでも、どこでも、どんな人も必ず苦悩から救う」
という〈誓い・願い〉が、真如の世界から私にまで到り届いて形を成したもの、
その色も形もない願いを誰にでもわかるように、現れたお姿を阿弥陀さま
と称し、ナムアミダブツとその御名をおとなえするのです。
 お釈迦様はみ教えを説かれる「教主様」阿弥陀如来は私達を救うと誓って
おられる「救主様」と申し上げます。
必ず救うと誓われている救主である阿弥陀如来への帰依を、教主である
お釈迦様は私達にすすめてくださっているのです。
なので真宗は「二尊のみ教え」であると説かれます。

法語の味わい ー法語カレンダー8月号よりー
 亡き人の 
 お浄土からの声を聞く

 昔から一般的には、お盆といえば、亡くなられたご先祖さまが帰って
こられ、その間、我が家ですごされ、またあの世に帰って行かれる、
その霊を追善供養し、ご冥福を祈るもの、と考えられています。
 亡き人を案じ、供養したいと願う事は自然なことですが、そこに
自身の除災招福を望む身勝手な思いはないでしょうか?
 浄土真宗のみ教えでは、ご先祖は私たちから亡き人への、追善供養
の対象ではなく、亡き人を私たちに「阿弥陀の願いを拠り所に、
真実に生きよ」と呼びかけてくださる「諸仏=阿弥陀さまとわたしの
仲立ちをしてくださる仏さま」と頂きます。
 ですから、この私が仏さまのみ教えに生きる者となってこそ、真実、
亡き人を尊ぶ事になるのです。
 亡き人を案じる私が、実は亡き人から案じられている身であった
事実に目覚め、あらためて、人として賜ったいのちや生きる意味を
問いなおす、聞法の機縁となってこそ、本当のお盆なのです。

坊守便り ー 万博訪問記 ー
 大阪関西万博に行ってきました。
大阪万博は国内経済が「失われた30年」と言われる状況下、給与は
据え置きにされ、物価のあがり調子が進む中にも、準備は着々と
進み開催にこぎ着けました。
 跡地は、サーキット場やアミューズメント施設などになるとされて
いますが、一番の目的はカジノを作ることにあると言う話題に、
当初よい印象は持てず、あまり興味もわきませんでした。
 東京に文化施設や経済が集中するなか、本当に関西に大きな
魅力を作り出す契機となるのでしょうか?
 ともあれ、前の万博から55年経った2025年の大阪万博を
体験させていただきました。
 チケットを入手するため、不慣れなネット登録をし、とりあえず
入場までこぎ着けました。
 入場してまず話題の大屋根リングを見、その巨大さと
、ふんだんに使われた木材に感嘆致しました。
 また、リングの上に上り、湾岸の景色を一望しましたが、木材を
メインに使ったパビリオンが多いな、と感じました。
 クウェート、サウジアラビアなどの中東の国々、インドネシア、
マレーシアなどアジアの国々は、若さにあふれ、パビリオンにも
活気がありました。
 総じて科学技術。AI・SDG,S、限りある資源を大切にしながら、
持続可能な発展への試みが、様々展開されているなと感じました。」

八月の行事
3 日(日) 午後1時〜  おみがき・清掃ご奉仕

7 日(木) 午前10時半〜 ピラティス

10日(日) 午後1時〜  盂蘭盆会準備

盂蘭盆会
14日(木) 午後1時・3時・夕方7時
15日(金) 午前10時・午後1時 (計五座)

* 8月16日〜20日、当寺夏期休暇を
   頂きます。
九月の行事
4 日(木) 午前10時半〜 ピラティス

18日(木) 午前10時半〜 ピラティス

20日(土) 午後2時〜   秋季彼岸永代経法要
ご講師 阿倍野 即応寺 藤井善隆師


寸言
戦争孤児が立派な人間になったりしたら
戦争の好きな奴らが喜ぶ    
          ある戦争孤児の少年のことば













































































































































































































































posted by ansenji at 01:20| Comment(0) | 法悦