法 悦 3月号 870号
ー真実の心 なむあみだぶつの歴史の詩(うた)ー
ある時、ひとりの人間が地上に誕生しました。大きな「いのち」の海から、
ひと、として生まれてきたその人は、自分を世に出した「いのち」の源を
たずねて、終わりのない歩みをはじめました。
やがて、その人の歩みは伝説となり、人々の間で心から心へと語りつがれて
いきました。
その伝説には、忘れていたことを思いださせる不思議な力があるのです。
どうやらそれは、その人の願いが声となり、言葉となり、世の光となって、
今でも、どこかで響いているからだと思われます。
その願いに出会った人はみんな、ありのままに生と死を見つめそれぞれに
「いのち」の花を咲かせ、生き生きとしていけるのです。
『正信偈』にはそんなことがうたわれています。
この詩(うた)は、はじめの方で、一人のひとが永遠の寿(いのち)と光を
もって、阿弥陀仏となるまでのいきさつが語られています。
それは二五〇〇年前、インドに生まれた釈尊(シャカムニ・ゴータマ・
ブッダ)によって説かれた『永遠のいのちの物語』というお経の話です。
青色青光
上記の文章は子ども達に仏さまのことば
を知ってもらいたい、親鸞様の「正信偈」の
意味を知ってもらいたいと、何年もの歳月を費やし東本願寺児童教化連盟の
仲間達で作成した『いのち』というテキストに、「正信偈」偈前の文として
戸次公正師が寄せられたもので、お釈迦さまのお説きになった、法蔵菩薩の
求道遍歴から説き起こされる仏説無量寿経を「永遠のいのちの物語」
と受け止め、表現しておられます。
およそ私たちの誰もが、物事を深く理解し、心に刻もうとする時、
その事柄が物語とまでなって、初めて腑に落ちるのではないでしょうか。
世界中に見られる神話や民話などの多くが、そのような成り立ちを
持っています。
分けても、それが意味深く、受け止めた人々の人生に大きな影響を与えうる
ものであればあるほど、国を超え民族の違いも超えて、人から人へ手渡され、
永く伝えられていくのです。
物語を単なる物語としてではなく、その物語の中に自身を見いだし、より
深く受け止め、自身紡いでいく語り手となって、歩みを共にしていく、そこに
物語は、一方的に聞くだけの「ストーリー」を超えた「真実」であると深く
頷かされ、生きる拠り所ともなるのです。
住職日々随想
先に記したように私たちは自身の人生を含め、物語として受け止めて初めて
腑に落ち、得心するものなのです。
例えば臨終の時、今までの自身の越し方が、走馬灯のように思い出されると
言われます。実際のところそれが事実なのかどうなのかは亡くなっていく
本人にしかわからない事なのかもしれませんが…
しかし様々な経典や論釈を紐解き、地獄極楽の相をまるで見てきたかの
ように克明に著された源信僧都の『往生要集』には、以下のように説かれて
います。
地獄に落ちると亡者は皆、閻魔様の前に引き出されます。
閻魔様のすぐ横には浄玻璃の鏡が有り、亡者が生前犯してきた悪しき行いや、
他を傷つけてきた事柄全てが余す所なく、まるで再現VTRを観るかの
ように映し出されます。
そこで閻魔様は何か裁きを下されるのではなく、亡者自身が写しだされた
罪深い己の姿に、「恐れ入りました」と、深くこうべを垂れて、自ら地獄に
落ちていくそうです。
昔のうたに「火の車作る大工は無けれども、己が作りて己が乗りゆく」と
ありますように、地獄行きの火の車を作るのは、自らの悪業によるもの
なのであって、それに乗って地獄に落ちていくのも、やはり本人に他ならない
というのです。
およそ荒唐無稽な作り話と受け取る向きもあるかもしれません。しかし、
この物語には、単なる物語を超えた真実があることが知らされます。
つまり、たとえ悪事をなして手に入れたものがあったとしても、心の底には
罪の意識が積み重なり、必ずその人を蝕んでいく、その事を表している
とは言えないでしょうか。
ロシアのプーチン大統領は、旧ソビエト連邦時代の、多くの周辺国を従え、
強大な勢力を誇っていた過去を懐かしみ、そこに固執して、ウクライナに
軍事侵攻いたしました。
が、短期に勝利を得ると思っていた予想とは裏腹に、まる一年の時を経ても
尚、膠着状態にあります。
さらに、歓呼の声を持って迎えられるとでも思っていたのかもしれませんが、
力でねじ伏せてきた周辺国が、ソビエト崩壊によって、ようやく手に入れた
自由と独立を手放すはずもなく、思いもよらぬ抵抗にあって苦戦しています。
戦争に反対する人々を弾圧し、虚偽情報を流布させて自国民の敵愾心を
煽っていますが、彼の思い描いた物語に一体どれだけの人がうなづき、
共有しようとするでしょう?真実ならざるものは語り継がれる物語とは
ならないのです。
坊守便り
ー地域懇親会を行いましたー
三年ぶりに旧猪飼野村の町会役員さん、猪飼野保存会の方々、安泉寺総代会
・同朋会・女性会の方々にお集まり頂き、地域懇親会を開催致しました。
十二年前の親鸞聖人七五〇回大遠忌法要を機に、「地域懇親の集い」
を続けさせて頂いておりましたが、コロナ禍の為、休会しておりました。
この度の法要でも皆さん惜しまずご協力下さいました。
保存会会員様はもとより猪飼野村を大切に思う方々です。安泉寺は
この地に四〇〇年の歴史があり、皆さんの思いはありがたことです。
今回は十一月六日の大屋根修復・慶讃法要の記念DVDの上映会を
させて頂きました。
法要当日は会場が四カ所となりましたが、それぞれの持ち場でご協力
頂きました。
そんな当日の模様を記録映像を観ながら、お茶を囲んで振り返りました。
それぞれの場面一つ一つに喜びがあり、笑いがあり、厳かな法要に感嘆し、
と素晴らしい上映会となりました。
このご縁を大切に猪飼野村の古寺として、皆様の心の拠りどころとして、
法灯を守って参りたい事でございます。
三月の行事
9 日(木)午前10時半〜ピラティス
12日(日)午後1時〜 おみがき清掃ご奉仕
18日(土)午後2時〜 春季彼岸永代経法要
ご講師 伊勢道浄寺 酒井正夫師
23日(木)午前10時半〜ピラティス
25日(土)終日 ご本山慶讃法要団体参拝
四月の行事
13日(木)午前10時半〜ピラティス
15日(土)午後2時〜祥月講・同朋の会聞法会
ご講師 円明寺ご住職 島章師
24日(月)午前10時半〜ピラティス
*感染予防には十分配慮し、各行事を行いますが、感染がさらに
拡大した場合、変更もしくは中止する場合がございます。
2023年02月27日
2023年3月
posted by ansenji at 21:11| Comment(0)
| 法悦
2023年01月31日
2023年2月
法 悦 2月号 869号
骨のうたう 竹内浩三
戦死やあわれ
兵隊の死ぬるやあわれ
とおい他国で ひょんと死ぬるや
だまって だれもいないところで
ひょんと死ぬるや
ふるさとの風や
こいびとの眼や
ひょんと消ゆるや
国のため
大君のため
死んでしまうや
その心や (以下略)
青色青光
上記の詩は宇治山田出身の詩人、竹内浩三の作です。
1945年4月フィリピン・ルソン島バギオにて、二十三歳で戦死(消息不明)
同郷の小津安二郎に憧れて、映画監督をめざしていた青年が、無残な最後を
遂げた事実に胸が痛みます。
今も日々報じられるウクライナの戦況、徴兵され前線に送られるロシアの
青年達、そして彼らに対峙せざるを得ないウクライナの青年達。違った出会い方
をすれば友ともなり得た彼らに、殺し合いを命じる老人達。戦争にかり出され
犠牲になるのは、いつも決まって若者や一般の庶民なのです。
沖縄で40年以上にわたって戦没者の遺骨収集をしている具志堅隆松氏が
「人は必ず寿命が来たら死にます。それは避けられないことです。しかし、
死ぬことと、殺されることは、別のものです。全く別のものです。」と、
人が決して犯してはならない罪だと述べておられます。
新たな犠牲者を英雄と賞賛することで、殺し殺されることを国民に受け入れ
させようという動きには、これまでもこれからも、決して与してはならない
のです。
お釈迦様の「殺してはならぬ、殺さしめてはならぬ」のお言葉を憶念し
続けたいことです。
住職日々随想
日々膨大な量の情報があふれる現代社会、移り気なマスコミあるいは国民性に
依るものなのか、安倍元総理の銃撃事件に端を発した政治とカルトの問題が、
ややもするとすでに終わった事とされてしまってはいないでしょうか?
哲学者のエーリッヒ・フロムは、ナチズムに傾倒していった戦前のドイツを
考察し「自由からの逃走」を著しましたが、同調圧力などと言われるような、
周りの視線を過度に気にし、無意識的に自身の欲求を抑えつけていることを、
「自由には義務と責任が伴わなければならない」と短絡的に受け止め、権威的な
ものに盲目的にしたがってしまう、その病理を解き明かしました。
そう言った意味で、ナチズムなどの権威主義的な政治とカルトとは、非常に
親和性が高い事に気付かされます。
だからこそ政治が宗教を利用し、カルトが政治に手を突っ込んでくる、
そういう構図も成り立っていたのです。
2019年に蓮如賞を受賞した批評家・随筆家の若松英輔氏が、宗教が
カルト化しないために絶対に超えては成らない壁が三つある。一つには「恐怖」
、恐怖によって人を縛り付ける。二つには「搾取」、その人の人生が破綻する
まで何かを搾取しようとする。三つ目には「拘束」、真の意味で宗教である
ならば、出入りは自由でなくてはならないが、これら三つが当てはまるよう
なら、それはカルトと言って良いと述べておられます。
蓮如上人の御一代記聞書に「仏説に、信謗あるべきよし、ときおきたまえり。
信ずる者ばかりにて、謗ずる人なくは、ときおきたまうこと、いかがと思うべ
きに、はや、謗ずるものあるうえは、信ぜんにおいては、必ず往生決定」と
説かれていますが、信ずる者も疑う者もあってこそ、宗教としての健康さが
保たれると言えましょう。
まさに宗教は諸刃の剣、人生に豊かさを与えてくれるものですが、宗教が
その健康さを失ったときには、逆に人生を破壊してしまう、そういう力も
あるのです。
前述の若松氏は「深く疑うことが出来るのは、とても大事なことです。
人には疑うことの中でしか発見できない問いがあるし、疑いの中でこそ人と
つながることがあるからです。」と述べておられます。
現在、公教育の場で宗教を教えることは禁じられていますが、人生に心の
拠り所を求めずにはおれない人間にとって、宗教とは一体いかなるものか、
それすら知らずにいれば、たやすくカルトの罠に落ちてしまいかねず、
大切な「問いとの出遇い」の機会も失ってしまいかねないのです。
坊守便り
法義相続ーお見送り
新しい年が明けました。本年もどうぞよろしくお願い致します。
コロナ禍により同朋会も新年会を行えませんでしたので、紙面をお借りして
ご挨拶申し上げます。
寒い冬はお亡くなりになる方も増え、年末から長年のお付き合いのある
ご門徒の方もお見送りしました。
当寺の前にお住まいの、東洋工業の奥さんもお亡くなりになりました。
コロナ禍もあり野辺送りまで数日待ちとなり、それまでの仮通夜を安泉寺
で行いたいとご連絡がありました。
息子さんと二人の娘さんが毎日付き添われる中、それぞれのお相方、
子供さんやお孫さんも、朝夕訪ねて来られました。お母さんのお身体の
お清めやお化粧を見守られ、おしゃれさんに合わせ、もう一度ヘアカラーも
頼まれました。
傍らで、ひ孫さんがお絵描きをしたり、食事も取られ、子供同士が喧嘩して、
涙も流すなど、家庭の居間のそのままのやり取りが、休まれているお母さんの
お耳にも心地よく聞こえていたかも知れません。
あの時、おばあちゃんを見送ったなぁと、ひ孫さんが後々お話しされるの
かなと思います。
葬儀前にご家族の送る言葉が読み上げられました。「お母さんには、
厳しい事を言われてました。でも、皆んなの事思って言ってくれてたん
ですね。」「おばあちゃんには一番怒られました。でも、大好きでした。」
確かに法義相続がされている、温かいお見送りでした。
二月の行寺
9 日(木)午前10時半〜ピラティス
16日(木)午前10時半〜ピラティス
18日(土)午後 5時〜 安泉寺地域懇親会
安泉寺慶讃法要DVD上映会
25日(土)午後 3時〜第五組慶讃法要テーマ聞法会
ご講師 島洸陽師
三月の行事
9 日(木)午前10時半〜ピラティス
12日(日)午後1時〜 おみがき清掃ご奉仕
18日(土)午後2時〜 春季彼岸永代経法要
ご講師 伊勢道浄寺 酒井正夫師
23日(木)午前10時半〜ピラティス
25日(土)終日 ご本山慶讃法要団体参拝
*感染予防には十分配慮し、各行事を行いますが、感染がさらに拡大
した場合、変更もしくは中止する場合がございます。
骨のうたう 竹内浩三
戦死やあわれ
兵隊の死ぬるやあわれ
とおい他国で ひょんと死ぬるや
だまって だれもいないところで
ひょんと死ぬるや
ふるさとの風や
こいびとの眼や
ひょんと消ゆるや
国のため
大君のため
死んでしまうや
その心や (以下略)
青色青光
上記の詩は宇治山田出身の詩人、竹内浩三の作です。
1945年4月フィリピン・ルソン島バギオにて、二十三歳で戦死(消息不明)
同郷の小津安二郎に憧れて、映画監督をめざしていた青年が、無残な最後を
遂げた事実に胸が痛みます。
今も日々報じられるウクライナの戦況、徴兵され前線に送られるロシアの
青年達、そして彼らに対峙せざるを得ないウクライナの青年達。違った出会い方
をすれば友ともなり得た彼らに、殺し合いを命じる老人達。戦争にかり出され
犠牲になるのは、いつも決まって若者や一般の庶民なのです。
沖縄で40年以上にわたって戦没者の遺骨収集をしている具志堅隆松氏が
「人は必ず寿命が来たら死にます。それは避けられないことです。しかし、
死ぬことと、殺されることは、別のものです。全く別のものです。」と、
人が決して犯してはならない罪だと述べておられます。
新たな犠牲者を英雄と賞賛することで、殺し殺されることを国民に受け入れ
させようという動きには、これまでもこれからも、決して与してはならない
のです。
お釈迦様の「殺してはならぬ、殺さしめてはならぬ」のお言葉を憶念し
続けたいことです。
住職日々随想
日々膨大な量の情報があふれる現代社会、移り気なマスコミあるいは国民性に
依るものなのか、安倍元総理の銃撃事件に端を発した政治とカルトの問題が、
ややもするとすでに終わった事とされてしまってはいないでしょうか?
哲学者のエーリッヒ・フロムは、ナチズムに傾倒していった戦前のドイツを
考察し「自由からの逃走」を著しましたが、同調圧力などと言われるような、
周りの視線を過度に気にし、無意識的に自身の欲求を抑えつけていることを、
「自由には義務と責任が伴わなければならない」と短絡的に受け止め、権威的な
ものに盲目的にしたがってしまう、その病理を解き明かしました。
そう言った意味で、ナチズムなどの権威主義的な政治とカルトとは、非常に
親和性が高い事に気付かされます。
だからこそ政治が宗教を利用し、カルトが政治に手を突っ込んでくる、
そういう構図も成り立っていたのです。
2019年に蓮如賞を受賞した批評家・随筆家の若松英輔氏が、宗教が
カルト化しないために絶対に超えては成らない壁が三つある。一つには「恐怖」
、恐怖によって人を縛り付ける。二つには「搾取」、その人の人生が破綻する
まで何かを搾取しようとする。三つ目には「拘束」、真の意味で宗教である
ならば、出入りは自由でなくてはならないが、これら三つが当てはまるよう
なら、それはカルトと言って良いと述べておられます。
蓮如上人の御一代記聞書に「仏説に、信謗あるべきよし、ときおきたまえり。
信ずる者ばかりにて、謗ずる人なくは、ときおきたまうこと、いかがと思うべ
きに、はや、謗ずるものあるうえは、信ぜんにおいては、必ず往生決定」と
説かれていますが、信ずる者も疑う者もあってこそ、宗教としての健康さが
保たれると言えましょう。
まさに宗教は諸刃の剣、人生に豊かさを与えてくれるものですが、宗教が
その健康さを失ったときには、逆に人生を破壊してしまう、そういう力も
あるのです。
前述の若松氏は「深く疑うことが出来るのは、とても大事なことです。
人には疑うことの中でしか発見できない問いがあるし、疑いの中でこそ人と
つながることがあるからです。」と述べておられます。
現在、公教育の場で宗教を教えることは禁じられていますが、人生に心の
拠り所を求めずにはおれない人間にとって、宗教とは一体いかなるものか、
それすら知らずにいれば、たやすくカルトの罠に落ちてしまいかねず、
大切な「問いとの出遇い」の機会も失ってしまいかねないのです。
坊守便り
法義相続ーお見送り
新しい年が明けました。本年もどうぞよろしくお願い致します。
コロナ禍により同朋会も新年会を行えませんでしたので、紙面をお借りして
ご挨拶申し上げます。
寒い冬はお亡くなりになる方も増え、年末から長年のお付き合いのある
ご門徒の方もお見送りしました。
当寺の前にお住まいの、東洋工業の奥さんもお亡くなりになりました。
コロナ禍もあり野辺送りまで数日待ちとなり、それまでの仮通夜を安泉寺
で行いたいとご連絡がありました。
息子さんと二人の娘さんが毎日付き添われる中、それぞれのお相方、
子供さんやお孫さんも、朝夕訪ねて来られました。お母さんのお身体の
お清めやお化粧を見守られ、おしゃれさんに合わせ、もう一度ヘアカラーも
頼まれました。
傍らで、ひ孫さんがお絵描きをしたり、食事も取られ、子供同士が喧嘩して、
涙も流すなど、家庭の居間のそのままのやり取りが、休まれているお母さんの
お耳にも心地よく聞こえていたかも知れません。
あの時、おばあちゃんを見送ったなぁと、ひ孫さんが後々お話しされるの
かなと思います。
葬儀前にご家族の送る言葉が読み上げられました。「お母さんには、
厳しい事を言われてました。でも、皆んなの事思って言ってくれてたん
ですね。」「おばあちゃんには一番怒られました。でも、大好きでした。」
確かに法義相続がされている、温かいお見送りでした。
二月の行寺
9 日(木)午前10時半〜ピラティス
16日(木)午前10時半〜ピラティス
18日(土)午後 5時〜 安泉寺地域懇親会
安泉寺慶讃法要DVD上映会
25日(土)午後 3時〜第五組慶讃法要テーマ聞法会
ご講師 島洸陽師
三月の行事
9 日(木)午前10時半〜ピラティス
12日(日)午後1時〜 おみがき清掃ご奉仕
18日(土)午後2時〜 春季彼岸永代経法要
ご講師 伊勢道浄寺 酒井正夫師
23日(木)午前10時半〜ピラティス
25日(土)終日 ご本山慶讃法要団体参拝
*感染予防には十分配慮し、各行事を行いますが、感染がさらに拡大
した場合、変更もしくは中止する場合がございます。
posted by ansenji at 22:23| Comment(0)
| 法悦
2022年12月31日
2023年1月
法 悦 1月号 868号
ーいのちは誰のものかー ベアトリス鈴木
ある日、釈迦族の王子であった少年のお釈迦様と、従弟のダイバダッタが
森に遊びに行かれたそうです。
折から二人の頭の上を、一羽の白鳥が悠々と飛んでいました。ダイバは
目ざとくそれを見つけ、はっしとばかり矢を射放ちました。確かにうまく
当たったらしく、白鳥は森の彼方に落ちていきました。
二人の少年はいち早く獲物を手にしようと駆け出しましたが、お釈迦様の
方が少し早く見つけ、抱きかかえました。
そこにダイバが追いつき「それは私の獲物だ、すぐによこせ」と迫りますが、
お釈迦様は「私が先に見つけたのだから私のものだ」と譲りません。
とどのつまり、国中の賢者を集め、意見を徴することになりました。
ところがお釈迦様のものだという者と、いや、ダイバのものだと言う者の
二派に分かれ、容易に意見がまとまりません。
ところが最後まで黙っていた老賢者が立ち上がり
「すべていのちは、それを愛そう愛そうとしている者のものであって、
それを傷つけよう傷つけようとする者のものではないのだ」と、そう
言い切った賢者の言葉があまりにも厳粛な調子を帯びていたので、自然みな
その言葉に従わざるを得なくなりました。
こうして白鳥はお釈迦様のものとなり、傷を癒やして大空に帰って
行きました。
青色青光
上記のお話は、鈴木大拙師の奥様のベアトリスさんが、大学生の英語の
教科書として、編纂されたものの中に掲載されていた物語の要約です。
「あなたのいのちは誰のものですか」と問われたとしましたら、
なんと答えるでしょう?
多くの方は当然のように「私のいのちは私のものに決まっている」と答える
でしょう。でも本当にそうでしょうか?
先日縁あって、ジェシー釋尼萌海さんという、スイス生まれの大谷派若手
女性僧侶の方の講演をお聞きし、深く考えさせられました。
彼女の母国のスイスでは法律で、条件さえ満たせば安楽死が認められて
いるそうです。
そして驚いたことに、彼女のお母さんが七〇歳になって、「もう私も十分
生きたから、安楽死の許可申請を出そうと思うの」と言い出されたそうです。
が、身体的にも精神的にも何ら問題の無い、全くの健康体、必要な医師の
診査など通るはずはない、と高をくくっていたところ「OKが出たよ、来週の
木曜日、朝の10時に決めたから。」と、もちろん必死に、馬鹿なことは
やめて欲しいと懇願しても「私のいのち、生も死も私の自由、たとえ娘でも
口出しする権利は無いでしょ。止めようとして帰ってこないで」と、
取り付く島も無い返事。
結果、前日にお別れパーティを開き、招けなかった人には手紙を投函し、
点滴による薬剤注入をして亡くなられたそうです。
住職日々随想
前記のお話の続きになりますが、ジェシーさんはどうして止めきれ
なかったんだろう、何か他に母を思いとどまらせる手立ては無かったのか、
などと散々ご自身を責めたりして、随分苦しまれたそうです。
我が国でも、安楽死を法的に認めるべきではないのかと、その法制化を
求める声もありますが、一度認めてしまうと、そのハードルはどんどん
下がったり、安楽死を装った犯罪を生む可能性も否定しきれないなど、
さまざま問題があります。
実際スイスでは、年端もいかない子どもや、鬱に悩む人などに、比較的
安易に認められてしまう、ということも起こっているそうです。
以前読んだ、自死遺族の方の手記に「自死は本人にとっては一つの解決
方法なのかも知れないけれど、残された遺族にとっては、とんでもない
暴力を受けたようなものなのです。」と激白しておられた事などが思い合わ
されるのですが、私のこのいのちは本当に私のもの、と言い切れるので
しょうか?
四年ほど前、実際スイスに渡航し安楽死された女性の姿を追った
「彼女は死を選んだ」というドキュメンタリー番組が放映されたそうですが
、ジェシーさんが喫茶店で休憩しているとき、年配のご婦人方が入って
こられて「夕べのあれ見た?」
「見た見た。すごいねぇ、スイスはいいねぇ」などと話しておられ、黙って
おれなくなった彼女が「どうして安楽死がいいの?」と問いかけると、
「そら、子供らに迷惑かけたないし、自分の財産も思うように使い切れるから、
ええやん」などと答えられたそうで、それに対して「じゃあ赤ちゃんはどう、
自分では何にも出来ないけど、それは迷惑じゃないの?」などとしばらく
議論されたそうです。
私もしばしば耳にしながらいつも違和感を感じているのですが、多くの方が
子供らに迷惑をかけちゃいけないと仰いますし、あえてかける必要も無いとは
思うのですが、此の世に誰にも迷惑をかけずに生きている者など、本当にいる
のでしょうか?
現在地球上の全生物の、二十五パーセントが絶滅の危機に瀕していると
言われ、その主な原因は人間の産業活動によると言われています。
他の生物にとって人間ほど迷惑な存在はありません。
また私たちの生活のために、どれほどの方々の手を煩わせているでしょう。
それこそ頭の先からつま先まで、自身で造ったものなどあるのでしょうか?
迷惑かけずには一日も生きられず、確かな関係を結ぶことなど出来ない、
その身の事実に頭が下がるとき、世界にいだかれている事実にも思い至る
のでしょう。まさにいのちは言葉を超えた真実の世界、如(にょ)より来生
(らいしょう)した賜り物、私物化など許されないものと知らされます。
坊守便り
ー生野区再発見 SDGsまち歩きー
生野区街づくり課企画の、まち歩きに参加させて頂きました。今回は生野
銀座商店街で集合し、近辺にある生野八坂神社からのスタートです。
ここは一度、天王寺区の神社に合祀され廃されたのを、氏子の努力により、
復興されたという経緯があったそうです。
この地域の生野小学校の児童数は、当時4400人在り、日本一の大規模校
でもあったそうです。
今では少子化から廃校になり、跡地にはインターナショナル校が出来る
ようです。
生野区には、当時多くの人が集まり、活気にあふれていた事を知る一方
、時代の大きな変遷を知りました。
鶴橋駅界隈では、乗降客が半減していましたが、最近のコリアタウン人気で
、取り戻したようです。
今回十五年に一度の法要をお勤めし、安泉寺も古い歴史ある境内を大切に
しつつ、新しい試みを取り入れてゆきたいと思うことです。
若院の企画で大晦日の当日にコンサートを行い、若い画家さんの作品展示も
する事になっています。若い方々が関心を持って下されば嬉しい事です。
一月の行事
12日(木)午前10時半〜ピラティス
21日(土)午後2時〜 修正会(新年ご挨拶)
*コロナ禍でございますので会食等は行いません。
26日(木)午前10時半〜ピラティス
二月の行寺
9 日(木)午前10時半〜ピラティス
16日(木)午前10時半〜ピラティス
18日(土)午後 5時〜 安泉寺地域懇親会
会費 1.000円
25日(土)午後 3時〜
第五組慶讃法要テーマ聞法会
ご講師 島洸陽師
*感染予防には十分配慮し、各行事を行いますが、感染がさらに
拡大した場合、変更もしくは中止する場合がございます。
ーいのちは誰のものかー ベアトリス鈴木
ある日、釈迦族の王子であった少年のお釈迦様と、従弟のダイバダッタが
森に遊びに行かれたそうです。
折から二人の頭の上を、一羽の白鳥が悠々と飛んでいました。ダイバは
目ざとくそれを見つけ、はっしとばかり矢を射放ちました。確かにうまく
当たったらしく、白鳥は森の彼方に落ちていきました。
二人の少年はいち早く獲物を手にしようと駆け出しましたが、お釈迦様の
方が少し早く見つけ、抱きかかえました。
そこにダイバが追いつき「それは私の獲物だ、すぐによこせ」と迫りますが、
お釈迦様は「私が先に見つけたのだから私のものだ」と譲りません。
とどのつまり、国中の賢者を集め、意見を徴することになりました。
ところがお釈迦様のものだという者と、いや、ダイバのものだと言う者の
二派に分かれ、容易に意見がまとまりません。
ところが最後まで黙っていた老賢者が立ち上がり
「すべていのちは、それを愛そう愛そうとしている者のものであって、
それを傷つけよう傷つけようとする者のものではないのだ」と、そう
言い切った賢者の言葉があまりにも厳粛な調子を帯びていたので、自然みな
その言葉に従わざるを得なくなりました。
こうして白鳥はお釈迦様のものとなり、傷を癒やして大空に帰って
行きました。
青色青光
上記のお話は、鈴木大拙師の奥様のベアトリスさんが、大学生の英語の
教科書として、編纂されたものの中に掲載されていた物語の要約です。
「あなたのいのちは誰のものですか」と問われたとしましたら、
なんと答えるでしょう?
多くの方は当然のように「私のいのちは私のものに決まっている」と答える
でしょう。でも本当にそうでしょうか?
先日縁あって、ジェシー釋尼萌海さんという、スイス生まれの大谷派若手
女性僧侶の方の講演をお聞きし、深く考えさせられました。
彼女の母国のスイスでは法律で、条件さえ満たせば安楽死が認められて
いるそうです。
そして驚いたことに、彼女のお母さんが七〇歳になって、「もう私も十分
生きたから、安楽死の許可申請を出そうと思うの」と言い出されたそうです。
が、身体的にも精神的にも何ら問題の無い、全くの健康体、必要な医師の
診査など通るはずはない、と高をくくっていたところ「OKが出たよ、来週の
木曜日、朝の10時に決めたから。」と、もちろん必死に、馬鹿なことは
やめて欲しいと懇願しても「私のいのち、生も死も私の自由、たとえ娘でも
口出しする権利は無いでしょ。止めようとして帰ってこないで」と、
取り付く島も無い返事。
結果、前日にお別れパーティを開き、招けなかった人には手紙を投函し、
点滴による薬剤注入をして亡くなられたそうです。
住職日々随想
前記のお話の続きになりますが、ジェシーさんはどうして止めきれ
なかったんだろう、何か他に母を思いとどまらせる手立ては無かったのか、
などと散々ご自身を責めたりして、随分苦しまれたそうです。
我が国でも、安楽死を法的に認めるべきではないのかと、その法制化を
求める声もありますが、一度認めてしまうと、そのハードルはどんどん
下がったり、安楽死を装った犯罪を生む可能性も否定しきれないなど、
さまざま問題があります。
実際スイスでは、年端もいかない子どもや、鬱に悩む人などに、比較的
安易に認められてしまう、ということも起こっているそうです。
以前読んだ、自死遺族の方の手記に「自死は本人にとっては一つの解決
方法なのかも知れないけれど、残された遺族にとっては、とんでもない
暴力を受けたようなものなのです。」と激白しておられた事などが思い合わ
されるのですが、私のこのいのちは本当に私のもの、と言い切れるので
しょうか?
四年ほど前、実際スイスに渡航し安楽死された女性の姿を追った
「彼女は死を選んだ」というドキュメンタリー番組が放映されたそうですが
、ジェシーさんが喫茶店で休憩しているとき、年配のご婦人方が入って
こられて「夕べのあれ見た?」
「見た見た。すごいねぇ、スイスはいいねぇ」などと話しておられ、黙って
おれなくなった彼女が「どうして安楽死がいいの?」と問いかけると、
「そら、子供らに迷惑かけたないし、自分の財産も思うように使い切れるから、
ええやん」などと答えられたそうで、それに対して「じゃあ赤ちゃんはどう、
自分では何にも出来ないけど、それは迷惑じゃないの?」などとしばらく
議論されたそうです。
私もしばしば耳にしながらいつも違和感を感じているのですが、多くの方が
子供らに迷惑をかけちゃいけないと仰いますし、あえてかける必要も無いとは
思うのですが、此の世に誰にも迷惑をかけずに生きている者など、本当にいる
のでしょうか?
現在地球上の全生物の、二十五パーセントが絶滅の危機に瀕していると
言われ、その主な原因は人間の産業活動によると言われています。
他の生物にとって人間ほど迷惑な存在はありません。
また私たちの生活のために、どれほどの方々の手を煩わせているでしょう。
それこそ頭の先からつま先まで、自身で造ったものなどあるのでしょうか?
迷惑かけずには一日も生きられず、確かな関係を結ぶことなど出来ない、
その身の事実に頭が下がるとき、世界にいだかれている事実にも思い至る
のでしょう。まさにいのちは言葉を超えた真実の世界、如(にょ)より来生
(らいしょう)した賜り物、私物化など許されないものと知らされます。
坊守便り
ー生野区再発見 SDGsまち歩きー
生野区街づくり課企画の、まち歩きに参加させて頂きました。今回は生野
銀座商店街で集合し、近辺にある生野八坂神社からのスタートです。
ここは一度、天王寺区の神社に合祀され廃されたのを、氏子の努力により、
復興されたという経緯があったそうです。
この地域の生野小学校の児童数は、当時4400人在り、日本一の大規模校
でもあったそうです。
今では少子化から廃校になり、跡地にはインターナショナル校が出来る
ようです。
生野区には、当時多くの人が集まり、活気にあふれていた事を知る一方
、時代の大きな変遷を知りました。
鶴橋駅界隈では、乗降客が半減していましたが、最近のコリアタウン人気で
、取り戻したようです。
今回十五年に一度の法要をお勤めし、安泉寺も古い歴史ある境内を大切に
しつつ、新しい試みを取り入れてゆきたいと思うことです。
若院の企画で大晦日の当日にコンサートを行い、若い画家さんの作品展示も
する事になっています。若い方々が関心を持って下されば嬉しい事です。
一月の行事
12日(木)午前10時半〜ピラティス
21日(土)午後2時〜 修正会(新年ご挨拶)
*コロナ禍でございますので会食等は行いません。
26日(木)午前10時半〜ピラティス
二月の行寺
9 日(木)午前10時半〜ピラティス
16日(木)午前10時半〜ピラティス
18日(土)午後 5時〜 安泉寺地域懇親会
会費 1.000円
25日(土)午後 3時〜
第五組慶讃法要テーマ聞法会
ご講師 島洸陽師
*感染予防には十分配慮し、各行事を行いますが、感染がさらに
拡大した場合、変更もしくは中止する場合がございます。
posted by ansenji at 14:16| Comment(0)
| 法悦