2022年08月27日

2022年9月

 法 悦 9月号 864号

 この生死(しょうじ…ひとの生き死に)は、
 すなはち仏の御いのちなり。
 これをいとひすて(厭い捨て)んとすれば、
 すなはち仏の御いのちをうしなはんとする也。
 これにとどまりて生死に著(ちゃく)すれば、
 これも仏の御いのちをうしなふなり。
 いとふことなく、したふことなき、
 このときはじめて仏のこころにいる。
 ただし、心を以てはかることなかれ、
 ことばを以ていふことなかれ。
 ただわが身をも心をもはなちわすれて、
 仏のいへ(家)になげいれて、
 仏のかたよりおこなはれて、
 これにしたがひもてゆくとき、
 ちからをもいれず、
 こころをもつひやさずして、
 生死をはなれ、仏となる。
        道元 正法眼蔵 生死の巻より

 青色青光
 上記の文章は道元禅師の主著「正法眼蔵」
からのもので、一読したところ、この文章が
自力の座禅を旨とする曹洞宗の開祖、道元禅師
のものとはにわかに信じがたく思われます。
 一般的に、親鸞聖人のあきらかにされた他力の教え、そしてその対極として、
道元禅師などの自力の宗旨、と受けとられていますが、そういうとらえ方が
じつは表層的で、本質を見失っているのでは、という問いを突きつけられている
のではないでしょうか?
 宗教の定義はまちまちですが、基本的には人間と人間を超えた存在(法)との
関係のなかで、現実の人間のあり方が相対化されあきらかになり、人生を有意に
とらえ直す地平が開かれ、諸問題に真向かう道しるべが与えられてくる、そこに
こそ宗教の本質があると言えましょう。
 殊に仏教は無我、つまり俺がわれがと言う我執を離れたときに成り立つ我
こそが、まことの自己であると説きますが、それは自力の修行に於いても、
無我ということが根底になければ悟りとは言い得ず、実に自力の修行に於い
ても、絶対的な法の前に、自己を相対化する、他力によるという自覚がなければ
ならないことが明らかなのです。
 そうです。宗教の本質、そして仏教の本質もじつは他力にこそある、と言う
ことが出来るのです。

住職日々随想 
 安倍元首相の銃撃事件に伴って、図らずも次々と露呈してきた、現政権と
さまざまな社会問題を引き起こしてきた旧統一教会との深い関わり、
国民を二の次にして、お互いに利用し合う相互依存関係が、
この国の政治にもゆがみをもたらしてきたのでは、と疑わざるを得ません。
 国家神道への盲信が、先の大戦へとこの国を駆り立てていったその反省から、
宗教を建学の理念とする私学以外の、公教育の場では宗教を教えない、という
政策につながりました。
特定の宗教教義を教える必要はもちろんありませんが、宗教とは一体何なのか、
真偽を見抜く力を養うことは、必要だったのではないでしょうか。
 ある意味、宗教というものに対する無知が、カルト的なものにつけいる隙を
与え、利用されてきた故に、多くの悲劇が生み出され、その一つの帰結として
今回のような事件が起こってしまったとは言えないでしょうか。
 宗教は字の如く「むねとする教え」、古代の日本語で、真ん真ん中のことを
「マウチネ」と言い、それが転じて「ムネ」と言うようになったそうです。
 今でも家の中心を「棟」と言い、身体の中心を「胸」と言いますが、生活の
軸として、私は何を保ち続けているのでしょうか?軸を失ったコマはちゃんと
回り続けられないように、信ずべきものを持たないでことに当たれば、さまざま
な状況や意見に、右に左にふらふらするばかり、ということになりかねません。
 だからこそほんとうの拠り所となる宗教との出遇いが、果たされなければ
ならないのです。
 確かに宗教は諸刃の剣、自己実現や自身の願望を満たすための手段として、
宗教を道具的にとらえ利用するという立場に立つとき、思わぬ落とし穴に陥る
可能性があります。
 たとえば、ひとを言い驚かせて、恐怖心を植え付けた上で、その状況を救う
ものはこれしか有りません、と何かを強要したり、搾取したりしようとする
ものは、およそ宗教の名に値しないものです。
心得るべきは、利用しようとしたものは、利用したものに足下を掬われる
と言う事実です。
 わらにもすがる様な思いで祈るということも、長い人生にはありうる
ことです。
しかしよくよく考えてみますと、なることはなるし、ならぬことはならぬという
厳然たる事実は、否が応でも受け止めていかざるを得ないのです。
 それは、単にあきらめるということではありません。諦めの「諦」の字は
「明らかにする」という意味も持ち、仏教に於いては「四聖諦(四つの聖なる
悟り)」などの様に、根幹を成す大切な視座ととらえています。
 そして、明らかになった「そこ」をこそ、自身の依って立つべき場として獲得
していく、清沢満之師のお言葉に、「自己とは他なし、任運に法爾に、現前の
境遇に落在せるもの即ちこれなり。」とあり、まさにそこに於いてこそ真の
道しるべを賜るのです。

坊守便り 
ー十一月六日、落慶法要をお勤めします。ー 

 瓦の葺き替え事業、床下耐震工事、内陣欄間の彩色、井戸屋形誕生仏、ライト
アップ整備等が終わりました。
 コロナ禍により、完成報告法要は二年半、先伸ばしとなっていましたが、
沢山の方が聞法の道場として思いをかけて待ち望んで下さいました。
 今月、お浄土に帰られた総代の倉橋巌さんもそのお一人です。前住職が本堂で
同朋会を始めた時のはじめからのメンバーです。いつも、本堂の整備にも気を
配って下さいました。
お礼を伝えると、「これが私の仕事ですよって」と、爽やかに笑っておられた
姿が偲ばれます。
今回は若院主の導師で、同朋会員の皆さんにお見送り頂きました。
 落慶法要は午後からの参道列スタートとなり、本堂の周りを練り歩いて
いただきます。古来は稚児列に参加することを「命冥加な有り難い事」と喜んで
下さったとお聞きします。
今回もまたとない機会に、ご縁のあるご門徒さんのお子さんに、お稚児さん
として参加して頂きたいと募集しております。
 是非お声がけ下さいませ。お待ちしています。
      
九月の行事
8 日(木)午前10時半〜ピラティス

 ー秋季彼岸永代経法要ー

17日(土)午後2時・午後6時

      ご法話 阿倍野 即応寺 藤井善隆師   
22日(木)午前10時半〜ピラティス

十月の行事
13日(木)午前10時半〜ピラティス

15日(土)午後2時〜祥月講・同朋の会聞法会
          ご法話 圓龍寺 門井斉師

23日(日)午後1時〜 おみがき清掃ご奉仕

27日(木)午前10時半〜ピラティス

*感染予防には十分配慮し、各行事を行ってまいりますが、
感染がさらに拡大した場合、変更もしくは中止する場合がございます。







































































































































posted by ansenji at 18:33| Comment(0) | 法悦

2022年08月01日

2022年8月

法 悦 8月号 863号

昨日生まれたブタの子が
ー「湖畔の宿」の替え歌ー

  昨日生まれたブタの子が
 ハチに刺されて名誉の戦死
 ブタの遺骨はいつ帰る
 昨日の夜の朝帰る
 ブタの母ちゃん悲しかろ

  昨日生まれたハチの子が
 ブタにふまれて名誉の戦死
 ハチの遺骨はいつ帰る
 八月八日の朝帰る
 ハチの母ちゃん悲しかろ

  昨日生まれたタコの子が
 タマに当たって名誉の戦死
 タコの遺骨はいつ帰る
 骨がないから帰れない
 タコの母ちゃん悲しかろ
<
strong>青色青光
 上記の歌は、第二次世界大戦末期に、子供たちの間で広く口ずさまれた
替え歌です。
原曲は往年の大女優、高峰三枝子さんの歌われた服部良一作詞の「湖畔の宿」
です。
戦地に送られた若者たちの間でも、広く愛唱されていたそうで、高峰さんが
慰問先で歌われると、誰もが涙されたそうですが、感傷的でで時局に
そぐわないと、軍当局により禁止されました。
 言論や行動の自由を奪われ、逃げることも出来ず、ただ国のために死ぬ
ことを強制されたとき、人としてなし得る精一杯の抵抗は、人間らしい感情や
思いを持つことで、明日の命も分からない非人間的な極限状況の中だからこそ、
センチメンタルな歌の底に流れる人間性に、自らの「生」に対する愛おしさ
を感じ胸を熱くしたのでしょう。
 じつに身の自由を奪われる事はあっても、心の自由を奪うことは誰にも出来
ないのです。
 勇ましく送り出された若者が、白い布に覆われた骨壺に収まって帰ってくる。
末期には石ころしか入っていないものや、何も入っていないものも有った
言われます。
 そのような中にも、暗い世相を笑い飛ばそうと、誰ともなく替え歌にして、
口伝えに子供たちの間に広まっていったそうです。いつも心に太陽を!と、

住職日々随想 
 安倍晋三元首相の銃撃事件によって、強引な勧誘や洗脳、霊感商法や法外な
献金などにより、カルト宗教ではと疑われていた旧、統一教会(現、世界平和
統一家庭連合)の反社会性が改めて取りざたされています。
 主に与党自民党に、無償で選挙に協力するスタッフを派遣したり、政策秘書
を政権中枢に送り込むなど、そのただならぬ深い繋がりも、露わになって
きました。
 今までも、さまざまな政策決定に影響を与えてきたのではと疑われて
いますが、最近では、家庭に居場所を失った、虐待児や育児放棄の子供たちの
救済も視野に入れ、名付けられようとしていた「こども庁」に、一部の自民党
有力議員が横やりを入れ、「こども家庭庁」と無理矢理「家庭」の二文字を
入れさせたことなども、旧、統一教会(現、世界平和統一家庭連合)の影響が
あったのでは、と怪しまれています。
 それらのことも相まって「宗教と政治の関係」という、古くて新しい課題が、
今また問われています。
 改めて健全な宗教の条件として、以下の五つが考えられないでしょうか。
 一、絶対的に平等であること。
 二、常に公開性を持っていること。
 三、客観的であること。
 四、ありのままの自己自身に目覚めること。
 五、絶対者教祖を立てないこと。
 現実問題として、なかなかそうはなっていなくても、確かな方向性として、
この五つの条件を満たすべく、取り組み続けているところに健全さが保たれ、
政治との関係に於いても、利用し癒着する関係ではなく、健康な緊張関係が
保たれ、ともに深め合っていけるのではないでしょうか。
 今回のような事件が起こると、宗教は恐ろしいもの、関わらない方が身の
ためと、短絡的に捉えてしまう人が出てくることは残念なことですし、宗教
などは自分とは無関係だ、型どおりのことさえしていれば、それで良いんだ、
と思われる方も増えるかも知れません。
 しかし少し考えれば容易に分かることですが、生きているものは必ず死に
ます。まさに人類の致死率は、一〇〇パーセント、逃れるすべは有りません。
 更に言えば、老いも病いも、生きることさえも、何一つとして、思うが
ままになどなりません。残された道は無視し続けるか、諦めるしかないと
なったならば、なんと虚しいことでしょう。
 そうではなく、これらの問題に目を背けず、自らの問いとして謙虚に
真向かって生きていく。そう、宗教は単なる知識や観念ではなく、「生き方」
の問題なのです。
 無関係な人など一人もいないのです。

坊守便り ー慶讃法要に向けてー  

 令和五年三月二十五日から四月十四日まで、本山では、親鸞聖人お誕生
八五〇年立教開宗八〇〇年の法要が合わせて勤められます。
 少し早いですが、全国の門徒に本山に上山していただく準備が
進められています。
当寺にも上山の要請があり、七月の法話会でお声がけさせて頂きました。
 昨今のコロナ禍・香港での言論統制・ウクライナの戦禍や、最近では
安部元首相の暗殺など暗い出来事が多い事です。そのような世相から
でしょうか。悩みを相談して供養を申し出られる方の問い合わせが、
この春は多かったように思います。
本堂にお越し頂き、阿弥陀様に向かい合っていただきます。ご事情を
お聞きし、お話してお帰り頂きます。
 心の均衡を失くしてしまうような事が数多くある時代です。親鸞聖人の
生きられた時代も、疫病が蔓延し混沌と光の見えない時代であったようです。
そのような中、人々の心の糧となるお言葉、み教えを残して下さいました。
 皆様と共に、慶讃法要をお勤めして聖人のご生涯に学びたいことで
ございます。
      
八月の行事

4 日(木)午前10時半〜ピラティス

7 日(日)午後1時〜 おみがき・清掃ご奉仕

 ー盂蘭盆会法要ー
14日(日)午後1時・午後3時・夕方7時半
15日(月)午前10時・午後1時 (計五座)
 *詳細につきましては後日ご連絡申し上げます。

25日(木)午前10時半〜ピラティス

九月の行事

8 日(木)午前10時半〜ピラティス

 ー秋季彼岸永代経法要ー

17日(土)午後2時・午後6時
     ご法話 阿倍野 即応寺 藤井善隆師   
22日(木)午前10時半〜ピラティス

*感染予防には十分配慮し、各行事を行ってまいりますが、感染が
さらに拡大した場合、変更もしくは中止する場合がございます。
posted by ansenji at 23:45| Comment(0) | 法悦

2022年07月02日

2022年7月

 法 悦 7月号 862号


 鮎は

 瀬に住む

 小鳥は森に

 わたしゃ

 六字の

 うちに住む

    六連島のお軽同行 


青色青光
 大乗仏教の実践行である六波羅蜜の第一に「布施行」が説かれますが
「施者・受者・施物にとらわれない」三輪清浄の心で施しをなす「財施」
の他に、「無財の七施…身施・心施・眼施・和顔施・床座施・房舎施」
があります。
 分けてもひとに居場所を施す床座施・房舎施は、現代人にとって最も
必要なものではないでしょうか。  
 連日の報道に見られますように、ロシアのプーチン政権による、
ウクライナ侵略が止まない中、かつて人々の日常生活を育んだ町が、
見るも無惨ながれきの山となり、住民が住み慣れた町を追われ、
居場所を奪われる姿に、憤りを禁じ得ません。
 しかしよくよく考えてみますと、それは戦災に会っておられる方々だけ
のことではなく、「私は、貴方は、ここに居ていいんだ」と思える居場所、
老いも若きも男も女も、誰も排除されない社会をこそ求めずにはいられない、
それはまさに魂の願いなのです。
 上記の詩は念仏子守歌として、五木の子守歌の節をつけて歌い継がれてきた
もので、今を生きるものだけではなく、先だってお浄土の諸仏となられた
懐かしいあの人この人、そんな方々とも出会える場が、私の称える
南無阿弥陀仏の念仏の中に開かれてある、と詠っています。

住職日々随想 ティク・ナット・ハンを偲んで
 もしもあなたが詩人なら、この紙のうえに雲が浮かんでいるのが、はっきり
見えることでしょう。雲がなければ雨は降りません。雨が降らなければ、
木は育ちません。
そして木がなければ紙はできないのですから、この紙がこうしてここにある
ために、雲はなくてはならないものなのです。もしここに雲がなかったなら、
ここにこの紙は存在しません。
 この紙をもっと深く見ていたら、この紙のなかに太陽の光も見えてきます。
太陽がなければ森は育ちません。実際、太陽がなければ、何も生きてゆく
ことができません。それで太陽もまた、この一枚の紙のなかに存在している
ことがわかるのです。
 もっと深く見つめてみると、木こりが見えてきませんか。木こりが木を
切って製紙工場に運び、紙がつくられます。
そのうちに小麦も見えてくるでしょう。
木こりは日々のパンがなければ生きられないので、木こりの食べるパンになる
小麦も、またこの紙のなかにあるわけです。
 それから木こりの両親も見えてきますね。このようにどんどん深く見て
ゆけば、数えきれないほどたくさんのものがあってはじめて、ここに一枚の
紙が存在するということに気づくでしょう。
 もう少しこの紙を見ていると、私たち自身もこの紙のなかに見えてきます。
ここに自分を見つけるのは、そうむずかしいことではありません。
だから、あなたのこころも、私のこころも、ここに参加しているのです。
この一枚の紙のなかには、あらゆるものが入っているのです。
ここにないものをひとつでも捜すことはできません。
時間、空間、地球、雨、土壌のなかの鉱物、太陽の光、雲、川、熱etc.
すべてのものが、この一枚の紙のなかに共存しているのです。
「ここにある」とは「ともにある」ことです。
私たちが、あるいは、何かのものが、ただ自分だけで存在するということは
ありえないのです。
 いま挙げたなかの何かひとつでも、もとに戻してみたらどうなるでしょうか。
太陽の光を太陽に返してみましょう。
そうしたら、この一枚の紙は存在するでしょうか。いいえ、太陽の光がなければ
何ものもありえません。そして、木こりを母親に戻してみても、この一枚の紙は
ここには存在しなくなります。
 要するに、この一枚の紙は紙以外のあらゆるものからできているのです。
もし紙以外のすべてのものを、もとのところに戻してしまったら、紙は存在しません。
ここにあるのはこんなに薄い一枚の紙切れなのに、このなかには宇宙に存在する
ものすべてが含まれ、共存しているのです。
                         『微笑みを生きる』より
 前記の文章は今年の一月に亡くなった、ベトナム出身の禅僧で、ダライ・ラマ
14世と並び称される、世界的平和運動家でもあったティック・ナット・ハンの
代表作の抜粋で、かくも詩的且つ的確に、華厳経の説く「一即多・多即一」の
縁起の思想を表したものは、ちょと他には見当たりません。
 今回のロシアによる蛮行により、世界中にもたらされた食糧危機など、
さまざまな悪影響を見るにつけ、まさに世界はすべてつながっている、争いは
右手と左手が傷つけ合う様なものである、という事実が露わになりました。
 師はベトナム戦争のとき、ただ平和を祈るだけでなく、双方の前線に趣き、
仏教の視点から和平を説き続けました。
彼の僧侶仲間の内には「焼身供養」と称し、自身ガソリンをかぶって火を放ち、
双方に和解を求める、そんな行動をした方も少なからずおられました。
 戦災孤児たちの社会支援や、戦死者の遺体回収事業などを行い、1966年
渡米後、ベトナム仏教徒の代表として、ベトナム戦争終結の和平提案を行う
など、その活動が広く認められ、1967年度のノーベル平和賞の候補にも
なりました。
 そのような師の活動は、社会参加し行動する仏教
「エンゲージド・ブディズム」として、その後の仏教界に大きな影響を与え
続けました。

坊守便り ー女性のつどいー  
 「女性のつどい」を開催する事が出来ました。お寺には女性部があり、
お斎作り、仏教コーラス、仏教民謡踊り着付け教室、ピラティス教室
などを行っており、先のご遠忌でもご参加下さり、さまざまお手伝いして
下さいました。
 定例会はなかなか参加できないが、年に何回かであれば参加しますと
言う方々を含め、今回のオカリナコンサートには32名ご参加下さいました。
 これまでのご講師は、アフガニスタンで井戸掘りをされた書房の店主、
大人の紙芝居屋さん、など来て頂きましたが、今回は、オカリナ奏者の方に
お越し頂きました。あたたかい音色の素晴らしい演奏と、楽しい
おしゃべりでした。
 コロナ禍で交流会が出来なくなり、久ぶりの事で、皆様、満面に笑顔の
あふれるひと時でした。
 はじめのご挨拶は本田豊子部長、司会進行には三木ふみこ副部長、最後の
ご挨拶は稲垣洋子副部長でした。
又、お楽しみビンゴ大会は民謡踊りの会、ピラティスの会の方々がして
くださいました。
 コンサートの十日前に、民謡踊り指導の豊原朱加子先生が、お浄土に帰られ、
皆さんと本堂でお見送りさせて頂きました。新年会では一人舞を披露され、
私たちには惜しみなく、丁寧にご指導下さいました。踊りに情熱を傾けられた
お姿が、さみしさと共に偲ばれることです。

七月の行事
7 日(木)午前10時半〜ピラティス

9 日(土)午後2時〜祥月講・同朋の会聞法会
          ご法話 住職
28日(木)午前10時半〜ピラティス 
      
八月の行事
4 日(木)午前10時半〜ピラティス

7 日(日)午後1時〜 おみがき・清掃ご奉仕

 ー盂蘭盆会法要ー
14日(日)午後1時・午後3時・夕方7時半
15日(月)午前10時・午後1時 (計五座)

 *詳細につきましては後日ご連絡申し上げます。

25日(木)午前10時半〜ピラティス

*感染予防には十分配慮し、各行事を行ってまいりますが、感染が
さらに拡大した場合、変更もしくは中止する場合がございます。
posted by ansenji at 00:50| Comment(0) | 法悦