2024年01月26日

2024年2月

法悦 2月 881号

 花を奉る  石牟礼道子

春風(しゆんぷう)萌(きざ)すといえども われら人類の劫塵(ごうじん)
いまや累(かさ)なりて 三界(がい)いわん方(かた)なく昏(くら)し
まなこを沈めてわずかに日々を忍ぶに
なにに誘(いざな)わるるにや
虚(こ)空(くう)はるかに 一連の花 まさに咲(ひら)かんとするを聴く
ひとひらの花弁 彼方(かなた)に身じろぐを 
まぼろしの如く視(み)れば
常(とこ)世(よ)なる仄(ほの)明りを 花その懐(ふところ)に抱(いだ)けり
常世の仄明りとは
あかつきの蓮(はす)沼(ぬま)にゆるる蕾(つぼみ)のごとくして
世々の悲願をあらわせり
かの一輪を拝(はい)受(じゆ)して
寄る辺(べ)なき今日(こんにち)の魂(たましい)に奉(たてまつ)らんとす
花や何
ひとそれぞれの涙のしずくに洗われて 
咲きいずるなり
花やまた何 
亡き人を偲(しの)ぶよすがを探(さが)さんとするに
声に出(いだ)せぬ胸底(むなぞこ)の想(おも)いあり
そをとりて花となし み灯(あか)りにせんとや願う
灯(とも)らんとして消ゆる言(こと)の葉といえども
いずれ冥(めい)途(ど)の風の中にて おのおのひとりゆくときの
花あかりなるを
この世のえにしといい 無縁ともいう
その境界(きようがい)にありて ただ夢のごとくなるも 花
かえりみれば まなうらにあるものたちの御形(おんかたち)
かりそめの姿なれども おろそかならず
ゆえにわれら この空(むな)しきを礼拝(らいはい)す
然(しか)して空しとは云(い)わず
現世(うつしよ)はいよいよ地獄とやいわん
虚(きよ)無(む)とやいわん
ただ滅亡の世せまるを待つのみか
ここにおいて われらなお
地上にひらく一輪の花の力を念じて 合掌す

     二〇一一年四月 東日本大震災の翌月に

住職日々随想
 元日早々、能登半島沖を震源とする
大地震が発生いたしました。
 心痛むことに多くの人命や家屋が失われ、いまだ行方不明の方々も多数おられ
ます。道路や水道などのインフラも、復旧するにはさらに数ヶ月を要する状況
で被災された方々へのより一層の支援が不可欠となっています。
 人口や経済の首都圏一極集中の進む一方で、高齢化と過疎化が急激に進行する
地方を襲った今回の災害、従前のような復旧復興のあり方を、そのまま当てはめ
ることのできない困難さがうかがい知れます。
 被災された方々の災害関連死を防ぐ事と、生活再建を急ぐ事こそが、何より
優先されなければならないはずの、今回のような国家的な危難にあってなお、
大阪万博やカジノに、当初の予算を遙かに超える巨額の費用と、多くの人手を
投じる事にうなずけないのは私だけでしょうか?
 ビジネスシーンでよく使われる言葉に「サンクコスト」があります。
サンクコストとは、過去に支払ってしまい、取り戻すことができない費用など
を指します。
 つまり何か計画について、問題を認めながらも、これだけの費用と労力を
注いできたのだから、今更中止したり、後戻りしたりする事などできない、
と思ってしまう認知のゆがみのことで、将来に関する意思決定をする際に
、人の心理に大きな影響を及ぼすことがあるものです。
 こういったことは、人類の歴史をひもとけば枚挙にいとまがありません。
 たとえば史上最悪の作戦といわれたインパール作戦、何万人もの戦死者、
餓死者を出しましたが、この無謀な作戦を計画した牟田口中将らがここ
まで戦ってきたのだから何らかの戦果を上げないとと、失地回復をめざし、
兵(へい)站(たん)を無視して強行したが故の惨敗でした。
 最近でも自民党派閥の裏金問題や、ダイハツの不正事件にも見られる
ように、誰もが内心で「おかしい」と思っていても、自らの保身を優先し、
組織内でそれを口にする者がおらず、深みにはまって、より最悪の結果を
見るという事も、同じで構造ではないでしょうか?
 誤解されがちなのですが、ここに見られる姑息な執着心と、
「もったいない」精神とは似て非なるものです。
 漢字で書くとよくわかるのですが「勿体ない」つまり体(たい)勿(なか)れ、
具体的な形は無いけれども、目に見えないお働き、お陰さまが有ると
とらえる豊かな精神の事です。
 原始仏教経典の法句経に「蜜蜂は(花の)色香を害(そこな)わずに、汁を
とって、花から飛び去る。」とあります。
ミツバチは一つの花に止まっても、用が済むと、また次に行ってしまいます。
それに対して、ややもすれば人間はずっと同じ花に見入りこだわってしま
います。
 蜜蜂が違う花を飛び交う軽やかな姿、
これが執着心を離れたひとつの相なのです。

真宗入門

 『院号』
法名の前に「○○院」とある人は「院号」という尊称です。
 真宗大谷派では、明治期に御影堂・阿弥陀堂を再建するにあたって、
法義相続・本廟護持(本願念仏の教えを受け継ぎ、聞法の根本道場である
真宗本廟である真宗本廟を護ること)を願いとして、相続講制度
(必要な経費を僧侶・門徒全体で支える仕組み)を設けました。
 以来、今日まで、ひろく法義相続・本廟護持にご尽力下さった方々への、
賞典として院号が送られています。
 『位牌』
 浄土真宗では「戒名」を記した位牌は用いず、亡くなられた先祖代々の
方の「法名」を掛軸(法名軸)にして、お内仏(仏壇)の側面にお掛けします。
また、法名軸の代わりに、法名帳(過去帳)を置くこともあります。その法名
の前に身を置く私たちには、真の仏弟子となることが願われているのです。

法語の味わい
 ー法語カレンダー二月号よりー

 心はごまかせる
 ごまかせぬ身に仏法聴聞


 頭は理解、心は共感、身で聞くを領解(りょうげ)と言います。仏法聴聞は、
領解です。
 法話を聞いて「一つ賢くなった、いい話だった」と言う人と、「愚かさや
恥ずかしさを知らされた。有難かった」と言う人があります。
 後者が領解なのでしょう。この違いは「自分で知る私、それは時に落ち込み、
時には賢く振るまう私」と「阿弥陀様に呼ばれた煩悩愚足の凡夫という身の私」
の違いです。
 煩悩愚足の凡夫とは、阿弥陀様の診断を受けた私の病名であり「欲と怒りと
愚痴が具わっていて、死ぬまで煩悩がなくならない私」ということです。
 阿弥陀様は私の問題を自己の問題として、願いを成就され、今私の上で
南無阿弥陀仏となって働いてくださっています。

坊守便り
 ー同朋会新年会ー  
 去る1月14日、同朋会新年会が行われました。実に4年ぶりの開催です。
過去の参加者名簿を整理させて頂きますと、16名の方が亡くなられるか、
入院中でした。
 この3年間で、沢山の会員の方々お見送りさせて頂いた事、しみじみ
寂しく感じましたが、新年会には新入会員さんもあり、30名ほどのご参加で
久しぶりに賑々しくおこなえました。
 住職の導師で正信偈のお勤めで始まり、乾杯は責任役員の藤野さんがして
くださり、能登地震の皆様に心痛む事と仰っておられました。
 民謡踊りの皆さんが場を盛り上げ、4人でお座敷小唄を踊って下さいました。
ピラティスの先生も、体ほぐし体操をしてくださり、また男性役員の皆さんは、
ビンゴゲームで盛り上げてくださいました。
 今年も皆様と共に聞法をし、バス旅行などの企画も行いたいと存じます。
 どうぞよろしくお願いいたします。

二月の行事

1 日(木)午前10時半〜 ピラティス

17日(土)午後 2時〜  同朋の会聞法会
地域懇親法話会
      
22日(木)午前10時半〜 ピラティス

三月の行事

7 日(木)午前10時半〜 ピラティス

10日(日)午後1時〜 おみがき清掃ご奉仕

16日(土)午後2時〜 春季彼岸永代経法要

21日(木)午前10時半〜 ピラティス 

*能登地震被災者支援の募金を集めさせて頂いております。
 当寺よりの参詣の折などに お預け下さい。
 とりまとめ、ご本山より被災地に送らせて頂きます。





 
























































































































































































































































posted by ansenji at 16:58| Comment(0) | 法悦

2024年01月02日

2024年1月

 法 悦 1月号 880号

ももとせを いのるこころの おろかさよ

なむあみだぶつの 無量寿なるに

光寿無量


本年も宜しくお願い申し上げます


  念ずれば花ひらく   坂村真民


 念ずれば花ひらく

 苦しいとき

 母がいつも口にしていた

 このことばを
 
 わたしもいつのころからか
 
 となえるようになった
 
 そうしてそのたび
 
 わたしの花がふしぎと

 ひとつひとつ

 ひらいていった

青色青光

上記の詩は宗教詩人、坂村真民の代表作です。幼いころに父を亡くし、
どん底生活の中、母親の苦労を見て育った真民は、母が自らを励ます
ためにつぶやいていた「念ずれば花開く」
のひと言に、いつしか自身も励まされる身となっていた事に気付かされ、
その感動を詠ったものです。
 一般的には、まず念ずるということがあり、様々努力してこそ、花も
開くんだと、捉えられています。
 しかし、いま一歩深く観てまいりますと、ここで言われる念とは、自身の
念ずる心というよりも、むしろ自らが念ずるに先立って、願いかけ念ぜられ
続けていればこそ、自らの内に芽生えたこころであると言えましょう。
 そして、その事実に驚き、手が合わさり頭が下がった、言わば依って立つ
大地が見いだされ、花開く場がすでにして与えられていた、そのわが身の事実に
気付かされた、という感動が根底にあるのではないでしょうか。
他の誰でもなく、念ずるこの私もまた、無量無数のご縁を賜ってこそのわが身、
私の意志で、私の選びで手を合わせるのではなく、計らわざるに念ぜられ
ていた、
その事実にこそ励まされ、念ずる身となると知られるのです。

住職日々随想
 最近よく耳にするようになった言葉に
「終活」があります。
 「終活」とは、人生の最期に向けて行う活動、具体的な活動内容は人それぞれ
ですが、主に、自分の遺産相続や遺品整理の手続きについて情報をまとめたり、
自身の人生観や半生をふまえて、遺志を書き残したりする事前準備の事と、
一般的にはとらえられています。
 確かに家族を失い残された遺族が、葬儀の行い方について思い悩んだり、
事務的な手続きや遺品などをどう扱えば良いのか、途方に暮れ悲しむ暇もない、
などということも有りますから、誰にとっても無関心では済まされない事では
あります。 
しかし宗教学者の釋徹宗師は、「終活は現代社会から我々に出された宿題です。
その在り方が問われている終末期医療や、地域コミュニティの崩壊に伴う孤立や
孤独死など、様々な課題を抱える現代社会にあっては、終活が単なる実務作業で
事足れりと言えるようなものではなく、自身の死に向き合い宗(根本)に目を
向けていく、大切な機縁である」と、指摘しておられます。
 まさに私たちの宗(根本)、自身の依って立つ足元から問われていると申せ
ましょう。 
 多くの年配の方が「家族や周りの者に迷惑をかけたくない。自分の人生の
終わり方や、死後の様々な事柄に関することも自分で決めておきたい」などと
仰いますし、それが終活を考える動機になってはいます。
 しかし、今日ただ今まで、誰にも迷惑をかけず、誰の世話にもならないで
生きてこれた者が、一人でもいるのでしょうか?
 口にするもの全てが他の命であり、身に着ける全てが、他者の手を煩わした
ものであるという事実に思い至れば、むしろ迷惑をかけずには、一日たりとも
生きられない存在、それが私たちの実相と気付かされます。
 生まれる時も、誰を母に誰を父にどこに生まれたいと、選んで生まれたわけ
でもなければ、「あしたには紅顔あって、夕べには白骨となれる身なり」と
御文に説かれているように、その終わりもままならないのも、この身の事実に
他ならないのです。
 死が生と同等に、私たちの理解を超えた事柄であり、かつ無限との接点で
あり、日常に流していってしまってはいけない、まさに特別な事柄である
という事を、意識するしないに関わらず、実は私たちは知っているのです。
 だからこそ、お念仏のみ教えにわが身を問い続けていくことこそが、
まことの「終活」であると言えるのです。

真宗入門

 -法名と戒名-
 「釋○○」や「○○信士」といった法名や戒名にはどんな違いがあり、
また、どんな意味があるのでしょうか?
「釋○○」「釋尼○○」は「法名」といい、浄土真宗で用います。
 「釋(釈)」の字はお釈迦様の「釈」を意味し、お釈迦様の弟子、
仏弟子としての名告りを表しています。
 一方「○○信士」や「○○信女」は「戒名」といい、五戒や十戒など、
定められた戒律を受けた者に付けられる名です。
 しかし、浄土真宗には受戒はなく、僧俗の区別や身分、字数による
階級の別もありません。
すべては「釈」の名のもとに差違はなく、共に仏弟子となるのです。
 法名は亡くなられた時に付ける名前のように思われていますが、
そうではありません。本来は「帰敬式(おかみそり)」を受式し、
生前に頂くものです。

法語の味わい
            ーカレンダー一月号よりー

 阿弥陀さまは今ここに
 うれしい時も悲しい時も

 皆様に配布させていただきましたカレンダー一月号の言葉の
味わいに、大谷派坂木恵定先生の詩をご紹介させて頂きます。
私たちの日ごろのこころを言い当てて下さっています。

「人の死にあい悲しみ 人が生まれるを喜ぶ
 別れを悲しみ 会うを喜ぶ
 ほめられて喜び くさされて悲しむ
 損をしたと茫然とし 得をしたと喜ぶ
 病みて悲しみ 治ったと喜ぶ
 それが死ぬまで続く凡夫の私だ
 凡夫はこの他に 何も知らない」

私達の毎日は有頂天になったり落ち込んだり、慌ただしい
日暮らしです。
 どうぞ日常生活の気分転換・阿弥陀様のおられる本堂に
お参りくださいませ。
ご一緒に聞法、茶話会などいたしましょう。

坊守便り

「生野再発見SDG,sまち歩き」に参加しました   

 生野区人権啓発研修でJR鶴橋駅から北鶴橋小学校まで歴史街道
をめぐりました。
まずは鶴橋駅からスタートです。
 現在はJR環状線・近鉄線・地下鉄と便利にそろい、乗り継いで
いますが明治28年にJRが出来た時は、天王寺から玉造の間が開業され、
桃谷駅(旧桃山駅)は有りましたが、鶴橋にはまだ駅がありませんでした。
 その後昭和3年に近鉄電車が開通しましたが、駅は現在の西口のみでした。
そして、昭和7年にはJRにも鶴橋駅が出来、昭和44年に地下鉄が出来て、
現在のような姿になったとお聞きしました。
 一説には、疎開道路は川を疎開させて、疎開道路と呼ばれるようになった、
と聞き及んでおりました。
 その川の埋め立て後は、すべて住宅になっておりましたが、先の戦争
の末期に、火災の拡大を避ける為、多くの家屋が引き倒され、強制疎開と
なったことが疎開道路の通称の語源であるとお聞きしました。
 お寺の周辺も、時代と共に変わり続けて来たことだと改めて思わされました。
 古い歴史を知り、新しい街と共存していかなければと思うことです。

一月の行事

14日(日)正午〜  同朋の会・新年互礼会

18日(木)午前10時半〜 ピラティス

25日(木)午前10時半〜 ピラティス

二月の行事

1 日(木)午前10時半〜 ピラティス

17日(土)午後 2時〜  同朋の会聞法会
地域懇親法話会
      詳細未定

22日(木)午前10時半〜 ピラティス


*感染予防には十分配慮し各行事を行いますが、感染が再拡大した
 場合、変更もしくは中止する事がございます。





 
























































































































































































































































posted by ansenji at 22:43| Comment(0) | 法悦

2023年11月30日

2023年12月

 法 悦 12月号 879号

 故法然聖人は、

「浄土宗のひとは愚者になりて往生す」と

候いしことを、

たしかにうけたまわり候いしうえに、

ものもおぼえぬ

あさましき人々のまいりたる御覧じては、

往生必定すべしとて

笑ませたまいしを見まいらせ候いき。

ふみざたして、

さかさかしきひとのまいりたるをば、

往生はいかがあらんずらんと、

たしかにうけたまわりき。

 いまにいたるまでおもいあわせられ候うなり。

         「末燈鈔」 親鸞聖人八十八歳
青色青光
 上記の文章は九十歳でご往生された
親鸞様の最晩年のお手紙です。
 二十九歳で法然上人の吉水門下に
入られてからの六年間に、見聞きされた事がらの中でも、とりわけ晩年に
至るまで大切に臆念し続けられたエピソードであり、師、法然上人の
お言葉にいかに深く感銘を受けられたかが、うかがい知れるものです。
 法然上人の吉水の草庵には、高位の貴族から遊女や盗賊上がりの者まで、
身分の違いを超え老若男女、様々な人々が寄り集い、師の説法を聴聞して
おりました。
 師は文字も読めない人々が、阿弥陀様の大悲のご本願を深く信じ、素直に
尊んでおられる様子をご覧になって「あの人たちの浄土往生は間違いなし」
と微笑まれ、知的関心から議論する人々をご覧になっては、「あの者たちの
往生は大丈夫だろうか?」と仰せになられた事を確かに拝見しました、
と記しておられます。
 そのことを親鸞様は六十年以上経っても常に新鮮に臆念し続け、自ら
「愚禿釋親鸞」と名乗られました。
 それは自力の執心を離れ、仏願力に乗じて深く自らの身の事実に
帰せられた、魂の名乗りに他なりません。

住職日々随想
 今年も南御堂、東本願寺、各末寺、それぞれで報恩講が厳修されました。
 真宗門徒の生活は「報恩講に始まり報恩講に終わる」と言い習わされて
まいりましたように、宗祖親鸞聖人の祥月命日の法要を、なによりも
大切に受け伝えてまいりました。
 報恩講の「報恩」は、仏恩や師の恩に報いるという意味ももちろん
有りますが、恩を報せるという意味もあり、お念仏の慶びを縁ある人々に
報せ、伝え続けていくという意味も含まれてあるのです。
 また、多くの宗教が、教祖誕生の日を一番の祝祭日とするのとは真逆に、
真宗門徒は親鸞聖人のご往生の日を無二の勝縁とし、相前後して祥月命日の
法要「報恩講」を営みます。
 それは誕生ということよりも、浄土往生の素懐を遂げるということが、
人間成就の最後にして最重要な一点であることが、真宗門徒の内に深く
了解されてきたからに他ならないのです。
 蓮如上人は御文の中で親鸞様のご命日を、明日(めいにち)と書き表して
おられますが、そこには宗祖のご命日を、自身のいただいたご信心を
明らかにし、信心の溝をさらう機縁とすべし、という深い願いが込められ
ているのです。
 また、往生という事について、親鸞聖人のお言葉を聞き取られた
唯円大徳が書き記された、歎異抄の第九条に、「師のみ教えをお聞かせ
いただき、誠に有り難いと思うのですが、すぐに喜びが消えてしまい長続き
しません。また、いかにお浄土の徳をお聞きしても、一向に急ぎ参りたいと
思えないのは、いったいどうしたわけでしょうか?」とお尋ねすると、
「お前もそうか、私も同じだ。無上の喜びに躍り上がっても不思議ないのに
、喜べないのは煩悩が盛んな為なのだよ。遙か、いにしえより今日に至る
まで、迷いを重ね続けてきた苦悩に満ちた娑婆世界ほど、我ら愚かな凡夫の
心を捉えて放さないものはない。 
だから未だ往った事のない安養の浄土には心が赴かないんだ。それは迷いの
煩悩が、真実を見る眼を曇らせているからに他ならない。
 ところが頼もしい事に、そんな私たちを阿弥陀様は、とうにお見通しに
なって、そんな者だからこそ救いたいと、誓いを立てられ既に成就して
下さった。まさに往生は疑いようがない事実なのだ。
 だから、いかに名残惜しくても、娑婆の縁が尽き、いのち終えるとき、
かの安養の浄土へはまいるべきなのだよ…」と仰ったとあります。
この無碍の大道を明らかに示された親鸞聖人を師とも、人生を共に歩む
善知識、御同行・御同朋とも仰がんと、その思いを新たにするのが
報恩講なのです。

真宗入門
ー帰敬式(おかみそり)ー
 帰敬式とは、仏様の教えを依りどころとして、生きる者となる事を
誓う儀式です。
 阿弥陀如来さまの前で「三帰依文」を唱和して誓います。
 三帰依とは、真実に目覚められた「仏」、仏がお説き下さった
教え「法」、仏の説かれた法に生きる人々の集まり僧伽・サンガ「僧」。
「仏・法・僧」の三つの宝を敬う者となることです。
 儀式では、実際に髪を切ることはありませんが、執り行って頂くなかで、
かみそりが三度頭にあてられる、「剃刀の儀」が行われます。
 帰敬式を受式すると、お釈迦様の「釋」の一字を賜り、仏弟子としての
名告りを表す「法名」「釋○○」「釋尼○○」をいただきます。
私達の誕生での名前は、子供のお父さん・お母さんの願いがかけられて
名付けられますが、法名は仏さまの願いがかけられた名前と言っても
いいでしょう。
 帰敬式は本山・南御堂・お手次のお寺でも受けることが出来ます。

法語の味わい
「念仏とは 自己を発見することである」
                 ー金子大栄ー
 この言葉は、「歎異抄」の中に、何度も「念仏」という言葉が出て
くる事について、金子大栄先生が明快に示して下さった言葉です。
 私達は困り事や悲しい事、嬉しくてたまらない事に出会った時に、
お念仏が口からこぼれる事はないでしょうか。
「私に取ってきわめて明瞭な事は、『念仏申す、そこに自己あり』
であります。
 何の難しい事を言わなくても、手を合わせ念仏するとき、そこに
自己があり、そこに自分の存在の場も見いだされます。
自分を発見する場が念仏といえます。
 そして、その自分に気づかせて下さるのが阿弥陀様であります。」
と、教えてくださいます。

坊守便り ー 初参式 ー
 同朋会役員の貝増克之・正英さんご夫妻から、三男に子供が
生まれたのでお寺に初参りいたしますと連絡が入りました。
おめでたいお知らせです。
 同朋会でいつも仏具磨きにお越し頂いた大森幸子さんを八月に、
一緒に民謡踊りを踊り、ここ二回の法要の庭儀(パレード)にも
ご本人、お孫さんも出て頂いた岸本晴美さんを十月に、お見送り
してさみしい事でした。
 お寺では、長くご縁のある方がお浄土に帰られ、仏となられる
お見送りと共に、新しい命の誕生もお迎えいたします。
 赤ちゃんにお父さんとお母さんがあり、そのお父さんとお母さんにも、
お父さんとお母さんがあり、永遠のいのちの繋がりの中で、まばゆい
光につつまれた阿弥陀様に、人として生まれて来た、またとない
喜びの祝福をいただきます。
 初参式はお寺の法要のなかでも、特におめでたい法要です。
お勤めさせて頂き有り難いことでした。

十二月の行事
3 日(日)秋の一日バスツアー
 「南都六宗 二大本山を訪ねて」
7 日(木)午前10時半〜 ピラティス

17日(日)午後2時〜
    年末おみがき・大掃除ご奉仕・年末茶話会

21日(木)午前10時半〜 ピラティス   

31日(日) 夜11時半〜 歳暮勤行 除夜の鐘

一月の行事
14日(日)正午〜  同朋の会・新年互礼会
           詳細は後日、ご連絡致します。
18日(木)午前10時半〜 ピラティス

25日(木)午前10時半〜 ピラティス


*前住職病気療養中のため、先月号より坊守が
 3・4ページのコラムを担当いたしております。
*感染予防には十分配慮し各行事を行いますが、感染が
 再拡大した場合、変更もしくは中止する事がございます。 

法味寸言
 迷うということは 自覚の第一歩である  
                      曽我量深
 
























































































































































































































































posted by ansenji at 22:58| Comment(0) | 法悦