2022年02月23日

2022年3月

 法 悦 3月号 858号
 
 積もった雪      金子みすゞ

上の雪
さむかろな。
つめたい月が
さしていて。

下の雪
重かろな。
何百人も
のせていて。

中の雪
さみしかろな。
空も地面(じべた)も
みえないで。

青色青光
 長引くコロナ禍の中、孤立した人々はより一層深い孤独感にさいなまれ、
中には自暴自棄に陥ってしまう方も少なからずおられます。
 「平穏無事な暮らしに恵まれている者にとっては、思い浮かべること
さえ難しいか知れませんが、世の中には、朝目が覚めるという事が、
恐ろしくてたまらない人があちこちにいます。
ああ、また今日も一日生きていかなければならないのだという考えに打ち
のめされ、起き出す力も出てこない人たちです。」と、精神科医の
神谷美恵子さんは仰っておられます。 
 上記の詩からは、みすずの世界を愛おしむまなざしが、あらゆるものに
注がれてあることが知らされます。が、また「中の雪さみしかろな」と、
誰にも打ち明けられない悩みを抱え、みずから命を絶った彼女自身の、
先が見えず行き場を失った孤独の深さが、しんしんと降り注ぐ雪に託して
表現されている事も読み取れます。
 ややもすれば、声の大きな者や耳目を引く事柄に引きずられてしまう
私たちの有り様、耳を澄まして、声にならない声にも耳を傾けて
いかなければ、世界は一層危ういものとなっていくのではないでしょうか?

住職日々随想
「脱ぐようにこそ着たい」
    園田久子(福岡県人権研究所副理事長)
 私たちがこれだけは譲れないと、頑なに握り締めているもの、それらは
視点を変えて問い直してみると、存外たわいもない事や、さほど重要では
ないものなのかもしれません。
 むしろ、それらを捨てることによって、初めて本当の自己に出会う
という事が、私の上に起こるのではないでしょうか。
 園田さんが仰りたかったのは、まさに殻を脱ぎ続けることによってこそ、
自身が解放されていくのだという事なのでしょう。
「仏教は無我にて候う」と蓮如上人が述べておられるように、仏陀の解き
明かされた悟りの本質もそこに有ると言えましょう。
 このように、人生に気づきが与えられると、実にさまざま自身を問う、
本質的な問いが立ち上がってきます。
 例えば日ごろ何も考えずに使っていた物が、貧しい国の児童労働に
よって出来ていると知った時、私はどう振る舞うのか?
 知ってしまった事実が、新たな行動に結びつくのか、もしくは問いから
逃げ出してしまうのか、そういった身の回りに溢れている事どもが、
日々私を問うていると気づかされます。
 またインターネットやITの発達が、わずか数十年の間に、多大な変化と
進歩を私たちの生活にもたらしました。が、一方で極端な富の偏在や、
ややもすれば人間不在になりがちな、急激な社会変容などから、深い孤独と
疎外感を味あわざるを得ない人々が、多く溢れ出してきました。
 誠に皮肉なことながら、万人に喝采を持って迎えられたものも、時間の
経過とともに、新たな問題を生み出すものとなってくるという事実は、
多くの歴史の証明するところです。
 何事にも、前を向いて走ることを、一度スローダウン、もしくは立ち
止まって、問い直さなければならない時が必ず訪れます。
 それらを避けずに倦むことなく問い続けることが、正に自己を問うことを
課題とする、仏道を歩む者の姿なのです。

坊守便り ー水子供養ー  
「水子供養していただけますか」と、
お問い合わせがありました。
「特別なことはしていませんが、浄土真宗のお作法でよければ、
お勤めします」と、お答えしました。
 中国から来られたご夫婦で、妊娠六週目で流産されたとのことでした。
 安泉寺では普段はあまり頼まれる事の無いご供養です。以前は生まれる
前に亡くなった場合や、生まれてすぐに亡くなった場合、長く人生を過ごした方
とは別に考えられていたようですが、最近はお骨があれば、家族の納骨堂に
納めるようになってきているようです。
 お子さんの名前は考えておられましたので、法名をおつけして経木に
書かせて頂きました。エコーで撮影した赤ちゃんのお写真を飾られました。
残念な事でしたと、ご一緒にお勤めしました。
念珠の珠をひとつずつ繰りながら熱心に念じておられました。
境内に場所を変えて誕生仏の前でもお勤めさせて頂き、小さなお葬式となり
ました。お釈迦様は嬉しいことも、悲しいことも見守ってくださる事だと思いました。
 またお参りしますと明るく帰られました。
いつでもお参り下さいとお見送りしました。

三月の行事
10日(木)午前10時半〜ピラティス

19日(土)午後2時〜春季彼岸会永代経法要  
          ご講師 伊勢道浄寺 酒井正夫師
  *コロナ禍の現状を鑑み、お斎接待は行わず、お昼の座
     のみとさせていただきます。

24日(木)午前10時半〜ピラティス 
      午後2時〜仏教民謡踊りの会
四月の行事
7 日(木)午前10時半〜ピラティス
16日(土)午後2時〜祥月講・同朋の会聞法会
 (講師未定)
21日(木)午前10時半〜ピラティス 
      午後2時〜仏教民謡踊りの会

*感染予防には十分配慮し、各行事を行ってまいりますが、
感染がさらに拡大した場合、変更もしくは中止する場合がございます。
posted by ansenji at 20:38| Comment(0) | 法悦

2022年01月26日

2022年2月

 法 悦 2月号 857号
 
 人が犯してはならない三つの間違い

  人は必ず寿命が来たら死にます。
  それは避けられないことです。
  しかし、死ぬことと、
  殺されることは、別のものです。
全く別のものです。

 人を殺すことは、
 間違っている
 人に殺されることを認めることは、
 間違っている
 自分で自分を殺すことは、
 間違っている

   沖縄戦遺骨収集ボランティア
  「ガマフヤー」代表 具志堅 隆松

青色青光

 昨年末の梅田のクリニック放火事件で、知人が無惨な形で命を奪われて
しまいました。
心の病を直そうと、前向きにグループカウンセリングなど治療に励んでいた
矢先のことで、本人もとても良い先生に出会えたと、明るく語っておられた
そうで、知り合いの誰もが大変ショックを受けました。
 罪を憎んで人を憎まず、とは申しますが、事件の容疑者の執拗で周到な
犯行計画が明るみになるにつれ、やり場の無い憤りを感じずにはおられません。
 在家の方ですが、仏教を深く学ばれ、今や私たち僧侶に仏教の講義をして
下さる程になられた、姫路国立病院の小児科医長、梶原敬一先生が、以前の
講演会で「願いをかけられない子供は、生きる力がありません。」と、
おっしゃっておられたことが思い起こされます。
 これをより深く考えてみますと、それは何も子供たちに限ったことではなく
、私たち大人もまた願いをかけられてきたからこそ、今日まで生きてこられた
わけで、まさに例外の無い事実なのです。
 そういった厳然たる事実に目覚め、深く頷く事が出来た時、何かの腹いせに
人を殺してやろう、などとは思いもしないはずです。
 更に言えば、たとえ世界中が私を見捨てても、一切衆生を選ばず嫌わず
見捨てたまわぬ阿弥陀仏だけは、決してお見捨てになる事はないのです。

住職日々随想
 東日本大震災から十一年目を迎えます
が、福島第一原発から程近く、帰還困難地域に指定され、年にのべ
十日間だけ帰還の許されている大熊町で、今なお、当時七歳の娘、
汐凪(ゆうな)さんのご遺骨を探し続けておられる木村紀夫さん
という方がおられます。
 木村さんが大熊町で唯一人の行方不明者である汐凪さんの捜索を
続けるなか、その辺り一帯を放射性廃棄物の中間貯蔵施設にする計画が
国によって提示されました。が、その説明会の場でまだ娘を探し続けて
いると、計画の見直しを申し出たところ、担当者から、そんな事は全く
考慮していなかったと知らされ愕然とされたと、ラジオ番組で
取り上げられました。
 福島と沖縄、同質の問題に気付かれたジャーナリストの
安田菜津紀さんの仲介によって、沖縄で四十年間戦没者の遺骨収集
ボランティアを続けておられる、具志堅隆松さんと出会われ、
正月休みを利用し、一月二日から大熊町で、ご一緒に娘さんの捜索
をされました。
 驚いた事に、小さな遺骨は多少見つかっていましたが、既に
五年以上なんの手がかりもなかった現場で、具志堅さんの見立てに
従って二十分足らず少し掘っただけで、人骨の中で最も大きい
大腿骨を発見されました。
 具志堅さんは「夕凪ちゃんやっと帰れるね。こんなにすぐ見つかった
のは、お父さんと夕凪ちゃんがお互いに呼び合ったからだよ、奇跡だ。」
と、共に涙されました。「東北の震災犠牲者の方は家族の元に帰る
権利がある。天災だけでなく、国策の犠牲者でもある。国や自治体は
最後まで探す努力を怠ってはいけない。遺骨は単なる骨じゃない、
人なんです。」と強調されました。
 具志堅さん達も強く抗議しておられますが、その沖縄では米軍の
新基地建設のため、マヨネーズ状の軟弱地盤を埋める材料として、
少し掘ればいまだにおびただしい数の戦争犠牲者の遺骨が出てくる土を、
土砂として海中に投じ続けるという、非人道的な行為が行われ続けています。
 死者は何度もないがしろにされてはなりません。死者をないがしろにし、
犠牲を容認するような社会は又、生者をもないがしろにする社会に
なってしまうのです。
 多死社会とも言われる現代日本、まともな弔いもせずに死者を見送る
傾向が顕著になってきました。それは又、命を軽んずる社会になってきた
証左かも知れません。立ち止まってよくよく考えるべきではないでしょうか。

坊守便り ー戦争展を開催しますー  
 南御堂の戦争展実行委員をさせていただいております。
昨年は太平洋戦争開戦から八〇年の節目の年でした。一年間に渡り
新聞各紙は戦争にまつわる記憶を特集致しました。
八〇年も前のことですから、戦争体験のある方はだんだん減り、急速に
風化が進んでいるのが現状です。
大阪にも大空襲で被災した歴史があります。
今もJR京橋駅横には、一度に数百人の方々が亡くなった事実を
伝える慰霊碑があります。
 この時の事を、数年前にお参りで伺ったあるお宅で、直接に
お聞きした事がありました。
「女学校の時に、疎開道路を歩いて京橋の工場に通ってました。
帰りに爆撃に遭いました。飛び散ったものが体に刺さって動けなくなり
、道端でそのまま倒れてしまいました、二日ほど経って、父が荷車を
借りて連れて帰ってくれました。」いつも、美味しいお茶でもてなして
下さるその方は、十分な薬もなく長く患い、戦後もずっと重い後遺症に
苦しまれたとの事でした。
そのお話をお聞きして、大阪空襲の悲惨さが実感を伴って身に迫りました。
普通の市民の日常を突然奪う戦争は、決して繰り返してはいけない事を
歴史に学び、今日に生かす為に、毎年大阪空襲の始まった頃に展示を
行っています。三月九日には、映画上映と講演も企画しています。
広くご覧頂きたい事です。

二月の行事               
19日(土)午後2時〜祥月講・同朋の会 
ご講師 円明寺 島章師
24日(木)午前10時半〜ピラティス 
      午後2時〜仏教民謡踊りの会
三月の行事
10日(木)午前10時半〜ピラティス
24日(木)午前10時半〜ピラティス 
      午後2時〜仏教民謡踊りの会
19日(土)午後2時〜春季彼岸会永代経法要
      ご講師 伊勢道浄寺 酒井正夫師
  *コロナ禍の現状を鑑み、お斎接待は行わず、お昼の
     座のみとさせていただきます。
*感染予防には十分配慮し、各行事を行ってまいりますが、
 感染がさらに拡大した場合、変更もしくは中止する場合がございます。
posted by ansenji at 17:17| Comment(0) | 法悦

2021年12月31日

2020年1月

法 悦 1月号 856号
 
 今までは
 
 人のことだと思ふたに
 
 俺が死ぬとは
 
 こいつはたまらん
 
      蜀山人 (大田南畝)

 うれし楽しや

 月日のたつは

 やがてまいらん

 彼のくにへ

妙好人 伊賀の三左衛門

青色青光  
 仏教では人間の根源的な苦しみに生・老・病・死の四苦、それらに愛別離苦
・怨憎会苦・求不得苦・五蘊盛苦の四苦を加えて、八苦が有ると説かれます。
分けても「死苦」は自身の存在が、此の世から無くなってしまうという事実に
対する恐れであるだけに、究極の苦と言えるでしょう。
 上の二句は、江戸時代の狂歌師、蜀山人の辞世の句と、妙好人と称される
浄土真宗の聞法を重ね禅の大家にも劣らぬ境地に達した、名も無き市井の
念仏者の詠まれたものです。
 正直、私たちの思いとしては、三左衛門さんのような境地にはほど遠く、
むしろ蜀山人の句により近いのではないでしょうか?
 思い起こされますのは、歎異抄第九条に唯円の「お念仏を申す身になっても
喜びが長続きせず、一向に早く浄土に往生したいとも思えないのはなぜで
しょう?」との問いに答えて、お前もそうか、この親鸞も同じじゃ。今まで
流転を重ねてきたこの娑婆は捨てがたく、いまだうまれざる安養の浄土が
恋しく思われないのは、迷いの煩悩が盛んであるからで「なごりおしくおもえ
ども、娑婆の縁つきて、ちからなくしておわるときに、かの土へはまいるべき
なり。いそぎまいりたきこころなきものを、ことにあわれみたまうなり」と、
迷いが深いからこそ、いよいよ阿弥陀仏の大慈悲心が喜ばれるとおさとし
くださいました。

住職日々随想 ー死は賜り物?ー
 新型コロナウイルスをはじめ、ウイルスは生物なのか生物でないのか、
判然としないそうです。
と言うのも、ウイルスは細胞分裂を繰り返し、ひたすら増殖するばかりで、
死なない存在、ただ壊れるか、感染力を失うかしかないそうです。
 地球が誕生しておよそ三十八億年、地球上にいのちを持つ単細胞生物が
誕生してからおよそ二十億年間、生物は死ななかった、と言うより死ぬ
必要が無く、細胞分裂を繰り返し、ひたすら増殖するばかりだったそうです。
 そして約十億年前に多細胞生物が誕生したとき、生物の中に「死を手に
入れた」ものが出てきたそうです。
 じつに「死」は生物にとって生存戦略上の武器、死ぬからこそ目的が
生まれ、交配をすることで様々な遺伝子が組み合わされ、環境に適応した
多様な形が生み出されてきました。
 また、死ぬからこそ遺伝子にエラーが生じても、その個体が死ねば
エラーが延々と引き継がれるという事もありません。
 ややもすれば、私たちは最も恐れ忌み嫌うものとしてのみ「死」を捉え
てしまいます。
病院には四号室が無いとか、死はケガレだと、塩をまいたり、見ないように
いたします。
 しかし生物学の立場から見れば、生きることの中にすでに死は内包され
ている。実際私たちの何兆という細胞は、日々衰えて死に、また日々新しく
生まれるという新陳代謝を繰り返しています。
 真宗の先学、清沢満之師は「生のみが我等にあらず、死もまた我等なり、
我等は生死を並有するものなり」と喝破されました。
 更に言えば死ぬことがなければ、生きがいも無いでしょう。
哲学者の田中美知太郎氏の言葉に「死の自覚が生への愛だ」とあります。
 まさに限りあるものという自覚に立って、いのちと真向かうときに、
初めて生が輝きだすのです。
まさに死は単に恐れいとうべきものではなくむしろ賜り物と頂くことも
出来るのではないでしょうか?

坊守便り  ー年の瀬ー
 
長引くコロナ禍の為にステイホームで過ごす一年が終わります。
 今年は同世代の多くの方が、ご両親を見送られました。「病院に入院する
と亡くなってからしか会えないから、自宅療養で送りました」とお聞きする
事がありました。もちろん病状やご家族の事情もあることです。
 当寺で、聞法会の参加だけでなく、お斎つくり、コーラス、民謡など
すべての行事に参加してくださる方があり、急な事から春からずっと入院され
ています。誰にも面会出来ず、ご主人も会っておられません。
当初すぐに快方に向かわれたのですが、面会が出来ず、今は気力を無くされた
そうです。悲しい事です。
 年末の日曜日は、同朋会で本堂、境内の大掃除と仏具磨きを行って下さ
いました。気を許し合った同朋の仲間で会話がはずみます。「こうすれば、
もっと光るよ」など言い交わしながらおみがきに力が入ります。
「わたしはお寺に来てるから元気やねん」と言われます。聞法を通じ集い、
言葉の掛け合いが心の元気につながっているのですね。掃除で体も動かし
賑やかで楽しい年の瀬の一日となりました。
 今年もよろしくお願いいたします。

一月の行事
6 日(木)午前10時半〜ピラティス
20日(木)午前10時〜ピラティス 
      午後2時〜仏教民謡踊りの会
23日(日)午後2時〜同朋の会修正会(詳細は後日ご案内申し上げます)

二月の行事               

3 日(木)午前10時半〜ピラティス
17日(木)午前10時半〜ピラティス 
      午後2時〜仏教民謡踊りの会
19日(土)午後2時〜祥月講・同朋の会 
 ご講師 円明寺 島章師
*感染予防には十分配慮し、各行事を 行ってまいりますが、万一、
感染が 再拡大した場合、変更もしくは中止 することがございます。
posted by ansenji at 16:44| Comment(0) | 法悦